峰山寺(東高遠) について知っていることをぜひ教えてください

  • 曹洞宗で、山号は金剛山である。かつては文明寺と呼ばれた。本尊は如意輪観世音である。

  • 山の神にある。永暦元年(1160)に文覚上人が来て、入野谷六波羅に庵を結び、千日の修行をした。その後、一刀三礼して不動明王を彫刻し、長寛元年(1163)に開眼成就し、建久6年(1195)に大雲山文明寺を建立し、明王の尊像を奉安したことに始まると言われる。源頼朝の帰依が厚く寺領として10町歩が与えられ、七堂伽藍に六坊を備えた巨刹であったとされる。

  • 永享元年(1429)に野火のため類焼し、天正10年(1582)に織田軍の兵火により焼かれた。寛永13年(1636)には鳥居忠春高遠藩に封ぜられると、父の忠政を追悼するため、堂宇を現在地に再興し、山形藩にあった長源寺住職の梵朔禅師を迎え、金剛山峰山寺と改めて中興した。秘仏の不動尊や、鳥居氏の墓のほか、坂本天山、中村元恒、中村弥六などの墓がある。

 

不動尊

鳥居氏の墓

 

【高遠案内(1966)】
東高遠、月蔵山の南麓にある。始め真言宗で文明寺といって七堂伽藍及び梅・松・桜・竹・桂・従容の六坊を持った大寺であった。天正十三年の冬松本の小笠原貞慶が大軍を率いて高遠城へ攻め寄せたとき、この六坊の僧侶二十余人が白山に出て戦功をたてている。今寺の上にある不動堂はその頃の本堂で、不動の尊像は文覚上人の作と伝えられ、成田不動、薩州不動と共に日本の三大不動の一つとして、霊験あらたかな秘仏といわれている。
一時荒れ果ててしまったが、寛永十三年鳥居忠春が高遠城主となったとき、山形から梵朔和尚を招いてこの寺を再興し、忠春の父忠政の法号によって金剛山峰山寺と改め曹洞宗となった。寺の後丘に巨大な二基の五輪塔は、忠春とその実母の墓である。また境内には阪本天山・中村元恒・中村弥六などの墓がある。

【木の下蔭】
板町村金剛山峯山寺は昔時鳥居主膳正忠春寛永十二乙亥年建立峯山大居士を以て開基とし則ち寺號とす峯山大居士は羽州山形長源寺へ葬る代*なきによつて二拾四万石の高滅し鶴之之助殿と號し三万石を當地を拝領元禄年中まで五十六年の領主なり此寺元は大雲山文明寺といふ眞言宗の寺なり無住にて大破におよびたるによつて鳥居家にあらたに建立寺とす文明寺の本尊しれず其さき天神山にありともいふ不詳其頃本尊は今寺の上にある不動尊なり行基の作又俗説に文覺上人の作なりともいふ庭に彌陀堂あり則當寺の本尊とす護摩堂は樹林寺へ引き文明寺の頃は六坊あり所謂梅の坊花王の坊竹の坊松の坊従容軒の六坊なり此六坊を以て板町村より非持除へ越ゆる道を六衢といふとぞ不動山門の仁王は恵心の作なり延享四丁卯年四月火災に類焼す其後當家の醫師池田蓬庵一貞今の仁王を寄附していまの所に移す池田丈助作なり當寺の打金は通用を越えて大ひなり建立以前鳥居家看經所とて城内にあり其時の金大小二つあり大を當寺に納め小を蓮花寺の七面堂へ納むと云傳ふ
涅槃會幅三間の大掛物行鉢廿一人前組紙鉢諸道具添其外寄附の什物品々ありといへども卯年火災に焼失す
紅厚板山水草花惣縫の打敷あり裏に爲清涼院殿月山正白大居士御菩提也奉寄進天嶽院殿于時寛永十一甲戌年閏七月十三日長源三世梵作代なり
紫打敷鶴龜松竹の惣紋腰巻と見へたり裏に爲自凉院殿菩提とあり
赤地古金らん二拾五丈長さ三間のけさ繻珍黄唐茶二拾五丈の袈裟又大中の屏風幕等は今にあり
鳥居家の廟所寺の上にあり
 鳥居主膳正忠春忠政之末孫也
 本光院殿覺林宗智大居士 寛文ニ壬卯年八月朔日攝州大阪にて卒去
  栗東寺にて火葬骨を當寺へ納む
 自凉院殿悟芳貞心大禪定尼 萬治三庚子年五月七日
  本光院殿の實母江戸駒込江岸寺にて火葬骨を當寺へ納む
長源三世日州梵作羽州山形より隨従し來て則當寺の開山と稱す本山は奥州岩城長深寺なり
開基の節鳥居家より四町八反の山を寄附せらる
鐘樓門あり鐘の銘畧す
 享保第四籠集己亥天春二月十有八英
 信陽伊那郡高遠金剛山峯山禪寺第八世 明了山謹書
  甲陽横澤住
   鑄物師 沼上治左衛門吉品
       同 八左衛門吉寛
不動尊の境内に秋葉の白山稻荷の三社あり