月蔵山 について知っていることをぜひ教えてください
地名・歴史
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高遠城址の東にある山で、月が昇るのを隠す(蔵す)ことから名付けたといわれる。また鏡臺山の別称もある。「蔵」を用いて「倉」を用いていないのは、「蔵」が大事な物を蔵うという意味をもつからとされる。単に月蔵とも呼ばれ親しまれている。
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中国の大乗仏教5部経の一つに般若経、華厳経などと並んで大集教があり、その中に12巻からなる月蔵経がある。山号に月蔵山をもつ鉾持の林光寺は、かつて月蔵山西麓の東高遠にあった。
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宮崎県大崎市の字名に月蔵がある。
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鏡台山は、峰の形状が鏡台(根古志形)に似ていることに由来するとされる。鏡台に据えられる丸鏡を月に見立てる説もある。上田市と群馬県高崎市に鏡台山がある。上田市の鏡台山は、歌川広重の浮世絵「信濃 更科田毎月 鏡台山」で有名である。上田市の鏡台山の付近には高遠山がある。福島県猪苗代町の地名に天鏡台がある。山梨県白州市に教来石(キョウライシ)の地名があり、甲斐武田氏の有力な家臣である馬場信春の根拠地であったとされ、教来石景政と名乗っていたこともある。教来石は「清ら石」を意味し、霊石に関わる祭祀が営まれていたと考えられている。
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山麓に鏡立の地名があったという記録がある。
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山頂付近にはNHKテレビ、NHK-FM、SBC、NBS、TSBといったラジオやテレビの中継局があり、山頂付近をサテライトとも呼んでいる。
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山麓には月蔵井筋がめぐっている。
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天正10年(1582年)3月2日の高遠城攻城において,森長可は月蔵山から高遠城に攻め入ったとされる.その際,2月19日には月蔵山に登って形勢を見きわめていたとされる.
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中村元恒は,弘化元年(1844年)に月蔵山の下に居を移し,元恒の号にもなっている「希月舎」に住んだとされる.その際,「余が齢已に七十に近ければ,今よりしてまた世にある事も長からじと屍を蔵る地を月蔵山に卜して」という序により「勤ける道はくまなき秋の夜の月もろともにかくる山かげ」と詠んだとされる.(1932,高津才次郎「蕗原拾葉と中村元恒」)荒町の希月舎に住み始めたのは文政7年(1824年)ともされる.(1969,向山雅重「中村元恒の「黒水一滴」」)
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高橋白山は,月蔵山について「鱸松塘見訪因同上月藏山分得蒸」と題して,「盤紆一徑駕虛登立倚寒雲第幾層駒岳雪合殘照冷龍川煙接暮陰騰野經洪水荒疇渺山受嚴霜瘦石稜臨眺空傷千里目吟心對酒轉無憑」と詩作している.
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大正8年(1919年)に高遠を訪れた窪田空穂は,高遠の町を見下ろすところにあった三津木春影の家を訪れ,月蔵山を仰ぎ見て,大正4年(1915年)に没していた春影の言葉を思い出したとされる.
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北原覚雄は,大正10年(1921年)頃に教員であった三澤勝衛と月蔵山を中腹まで登り,藤沢川の東側と西側で地質時代が全く異なることを三澤は北原に教えたとされる.そのとき北原は,長藤と藤沢は良いダムになると夢のようなことを言い,三澤の賛同を得たとされている.
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「放送用語集」(1962,日本民間放送連盟編)では,月蔵山は,難読地名として「ガッゾーザン」と読まれることとされていた.
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昭和43年(1968年)に示された「中央道沿線地域開発基本計画」(中央道沿線地域開発計画策定委員会編)では,晴ヶ峰,千代田湖,月蔵山などの拠点と高遠城址公園や入笠山を結ぶ観光開発が計画されていた.
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平成25年(2013年)10月には,70代女性がきのこ採り中に足を滑らせて滑落し、死亡する遭難があった.
- 三義では月蔵山から雨が降り出すと大雨になるとされている.
地形・地質
- 「下伊那郡地質志」(1925,信濃教育会下伊那部会編)によれば,藤沢川は板山で月蔵山に妨げられて西に流路を転じて,(赤石)構造谷の線を離れるとされていた.
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「地質学汎論 増訂版」(1948,藤本治義)によれば,中央(構造)線は諏訪湖の東南に位置する杖突峠付近に始まり,月蔵山,分杭峠,地蔵峠,和田町,青崩峠,奥領家を通るとされていた.
【木の下蔭】
城東にある山を月藏山といふ月の昇るをかくす故名付くと見えたり又鏡臺山ともいふうしろの山を駒がくぼと云ふ惣名なり非持より馬を放すによつていふ又岸より東に向へる尾上に鷹の打塲といふ所あり先月鷹匠役山本彌右衛門といふ士へ命あつて鷹を打御殿釣根といふより東南の方に仙左だつといふ尾根あり是は先年猪狩として御登山の時今の久保氏の父其頃仙左衛門と云ひし人此峠にて度々鹿を打つ仍つて其頃より自然と人其名を呼んで今はたつまの?名となれり