本丸(高遠城址) について知っていることをぜひ教えてください

  • 高遠城の主郭があった。

  • 近世には平屋の御殿のほか、櫓、土蔵などの建物があった。廃藩により明治5年(1872)に建物は民間に払い下げられた。坪庭もあり、石灯籠があったとされる。石灯籠は、明治期に太鼓櫓の付近にあったことが確認されているが、その後、二ノ丸の天下第一桜の碑の付近に移設されたと言われる。

  • 現在も藤原社新城社が祀られている。合わせて新城藤原社(しんじょうふじわらしゃ)とも呼ばれる。向かって右手前にある奥方の井戸は深さが20mあると言われ、本丸唯一の井戸であった。境内には高い木(モミか?)があったが昭和40年代に落雷により焼失したとされる。仁科盛信の慰霊祭及び例大祭は4月29日に行われている。

  • 太鼓櫓は藩政期には搦手門内にあったとされ、朝の登城の合図のほか、時報ととして、太鼓が打たれていたと考えられる。廃藩後は、三峰川対岸の白山に移設されたが運用に経費がかさみ、明治8年(1875、明治10年頃とも考えられている)に現在の位置に再移設された。この頃からは昼間の偶数時に打たれていたとされる。明治15年(1882)頃の写真には現在地に前身となる小規模な櫓を確認することができる。明治45年(1912)に太鼓櫓(報鼓楼)がより大きな規模で改築された。戦時中には昭和17年(1942、昭和18年とも言われている)には太鼓の音響を規制するために太鼓による報時が中止された。戦後は、三ノ丸にあった高遠高校でチャイム替わりに使用されていた。2017年現在、太鼓は高遠町歴史博物館に展示されている。

  • 問屋門は、昭和23年(1948)に西高遠本町の牛山氏庭園入口から本丸の現在地に移築された。問屋門は、本町に高遠農協建設がされる際に解体処分されるところだったが、東高遠の矢澤氏らが買い取り、高遠町の文化財担当部局や有志への働きかけにより協力を得られ、移築することができた。

  • 明治14年(1881)に高遠公園碑が建てられた。篆額は嘉彰親王、書は巌谷修、撰文は三島毅、刻字は有賀彌吉である。

  • 明治25年(1892)には本丸で高遠学校の運動会が春季と秋季に行われていた記録がある。各種の遊戯や運動のほかに綱引きもあった。春季の運動会は桜の花見も兼ねていた。

  • 明治43年(1910)に須田経哲を頌徳する碑が建てられた。

  • 大正9年(1920)に、中村元恒と中村元起の父子を顕彰した碑が東側の土塁上に建てられた。この際、碑の搬入経路となった南曲輪と連絡する木橋が、碑の重量に耐えるため土橋に替えられたとされる。

  • 大正15年(1926)に中村不折寿像が建てられた。その後、像は修復され、信州高遠美術館内に展示されている。

  • 昭和28年(1953)頃、当時、高遠町役場の経済課長であった澤上定男が本丸の老木を見て、樹幹の股になっている箇所から細根が出ているのを発見した。この細根を泥土や菰(こも)により養生したところ細根が伸長していた。その後、細根を地上部まで誘導し、踏圧等で傷んだ根に替えて、新たな根を張らせ老木を若返らせる方法の試行を始めた。昭和34年(1959)に「緑化の父」とも呼ばれる日本風景協会の徳川宗敬会長が来園した際、随行していた植物学者の本田正次は、この老木の樹勢回復の方法(不定根誘導)を見て、桜の習性を捉えたよい方法として認め、継続することを勧めた。以後、コンクリート注入による樹幹支持などの応急処置を試行しながら、公園内の他の老木にも不定痕誘導を採用してきている。

  • 昭和35年(1960)にコヒガンザクラ樹林が県天然記念物に指定されたことを記念し、コヒガンザクラ碑が建てられた。

 

12月の本丸

夜の問屋門

勘助曲輪方面から見た新城藤原社

奥方の井戸

夜の太鼓櫓

高遠公園碑

中村元恒と中村元起の顕彰碑

中村不折寿像があった場所

コヒガンザクラ碑

桜(不定根誘導による治療の様子)

ライトアップされた桜の枝