東高遠 について知っていることをぜひ教えてください
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縄文時代の打石斧などの遺物が、久保川、桂泉畑、花畑、高遠城跡、殿坂の遺跡から出土している。このうち桂泉畑は大規模な遺跡であり、勝坂式土器や黒曜石剥片等も出土している。
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平安末期には豪族の居館があり、段丘の突端に砦があったとされる。治承の頃(1177-1181)は、現在の東高遠のあたりを根小屋三十丁(板町三十町)と称し、石田刑部という地頭に治められたという記録もあり、殿坂には根小屋の地名が残っている。
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中世に創建された寺院としては、建久6年(1195)の文明寺(峰山寺)がある。
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近世には、現在の東高遠から長藤の一部までを含めて板町村と呼ばれていた。板町村という名の起こりは古老の話によると、昔は人家の屋根が栗の木などを、長さ30~40㎝、幅約10㎝、厚さ5~6㎜の板に剥いだもので屋根を覆い、雨露をしのいでいた。その板にする材料が月蔵山一帯に豊富にあり、屋根板の需要も多く、その屋根板を作る職人も多く住んでいたことから板町村と呼ばれていたという。
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近世には、高遠藩の城地と武家町が成立し、侍屋敷が多くあった。天保5年(1834)の「天保郷帳」には、御家中として、郭内町、殿坂町、若宮町、北村町、大屋敷町、荒町、宮下町、新屋敷町、板町、下タ町、久保川町、横町、馬場町、元厩脇町、花畑町、田中町の16町(御家中十六町)と板町村が見える。
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明治4年(1871)に高遠藩が廃藩により高遠県となり、その後、筑摩県の第119区板町村と第122区高遠町に編入されたが、明治8年(1875)に筑摩県伊那郡に西高遠町と分かれ、東高遠町が行政区域として成立した。
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明治22年(1889)に西高遠と合併し、東高遠は高遠町の大字名となった。
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明治26年(1893)に、城内を郭内一番組、それを取り巻く各地域を殿坂、若宮、二番組、三番組、四番組、五番組、六番組と呼ぶ行政上の通称(町内名)ができた。
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昭和22年(1947)頃、四番組は花畑と町内名を変えた。
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昭和59年(1984)頃から五番組の田ノ口地籍が宅地造成され、新たに田ノ口という町内名ができた。
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昭和60年(1985)には郭内一番組が郭内の人口減により、二番組と合併して二番郭内という町内名に変更になった。
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平成2年(1990)頃、六番組は鍛治村と町内名を変えた。
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平成18年(2006)に高遠町と伊那市が合併し、東高遠は高遠東区という行政区となった。明治初年の東高遠町_1
【図の説明】