桂泉院(東高遠) について知っていることをぜひ教えてください

  • 曹洞宗で、山号は龍澤山であり、本尊は釈迦牟尼仏である。
  • 現在は田中の里にあるが、最初は法憧院曲輪にあった。開山は月哺禅師で、正平8年(1353)に時の城主であった高遠太郎家親が月哺禅師の高徳を聞き、城の鎮護の寺としたと言われる。その後、文禄元年(1592)に上野国松井田補陀寺の住僧であった荊室広林が来て、どんな人でも出入りができる城外に移すよう勧め、清い泉の湧き出る桂の木の傍にうつして、龍澤山桂泉院と称するようになった。
  • 梵鐘は県宝であり、勘助桜、仁科盛信の位牌堂、武田信虎の墓が伝えらえれ、守屋貞治の石仏などがある。

 

左右に貞治仏のある石段

 

【高遠案内,高遠町観光協会,1966】
峰山寺に並んで月蔵山麓にある寺で、天正の頃内藤修理亮昌月が高遠の城に居た頃、その弟で僧となった荊室広林の開山である。始め城内法憧院郭に建てたが、城内では庶民に法を広めるのに不便であったので、慶長九年白竜の告げによって城外竜ヶ沢の、清い泉の湧き出る桂の木のそばに寺を移し、竜沢山桂泉院と名づけたと寺の沿革に記されている。境内には南北朝に鋳た古い梵鐘がある。鐘銘に「大日本国信濃伊那郡伊賀良庄上河路郷畳秀山善禅寺、文和四年乙未九月六日」と刻まれている。これは織田信忠が高遠城を攻める時下伊那から運んで来たもので、落城の後戦没者の供養をしたとき、法憧院にこの鐘を供へて霊を弔ったものといわれている。尚 この寺には「蒼竜院殿源晴清公成建功大居士」と記された仁科盛信の位牌も祀られている。

【木の下蔭】
板町村龍澤山桂泉院は曹洞宗にて開山禪師諱は廣琳荊室と號す甲斐信玄家臣内藤修理信量の次男なり禪師幼ふして上州長生寺の弟子となつて落髪す其後上州松井田補陀寺的雄和尚を參じて百犬野狐の話を示されて日夜に進み其奥旨を領す
天正十丙戌年正月廿六日上州善龍寺丈室に於て宗脈を傳え則善龍寺に住職す翌春的雄和尚の遺命によつて補陀寺に轉院す大壇大道寺駿河守政繁に逢つて厚くもてなさる性得徳容慈仁にして僧俗共に仰ぐ事あつし
其後羽柴秀吉北條の門族を攻むるによつて補陀西城の寺格をたつて東城新に城の傍に寓す終に天正十八寅年七月十八日落城して大壇大道寺政繁討死す依而ひそかに遺骸を葬つて石牌を寺の西の岡に立つ翌年秋松井田の民家もとの如く治まるによつて本院殿閣を新城に移す政繁の爲に新に塔院を記す來炫院殿光淨清大居士と稱す
文禄元壬辰年二月九日亨寅長老に補陀寺を護りて當城の法堂院に退去す其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つてや住院幾ほどならずして緇白其徳を仰ぐ事厚し然れども城内の事なれば他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば廣く法化をなすこと能はず依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る或る夜一人の老叟來て戒法を請むことを乞ふこれを授く須叟にして老人忽ち失せて桂の池の邊りに恍惚として白龍現じ謝して岩窟に清泉を出して法施に酬むと清泉出づ貴賤手に拍つて稱す禪師を信仰す則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號く雲衲日々輻輳し補陀寺の軌則を模して祖令僴赫たり其後慶長九甲辰年伸冬廿五鴈遷寂す門弟子師の遺骨樹塔を補陀善龍當寺三ヶ所に分る法を嗣く者三人鐡刕照山行庵參話の書冊若干紙補陀の室中に秘藏す
法堂院の開基月浦和尚文和三丙午年二月十日寂す山號其他師傳不詳
宮の下諏訪明神其嚮法堂院にあつて當城の鎭守たり當寺と同時に今の所に遷宮ありし也山門の内に祠壇を設けて鎭守とし正月元旦社參して國家安全を祈るとぞ
當山の伽藍往々備足して只七堂の内浴室佛殿を闕くるのみ
本尊華嚴の釋迦脇立文殊普賢なり
寺の南桂の池ありて桂の古木今に存せり此池桂井と稱して三名水のひとつなり
桂井の上山際に瓣財天の宮あり寺より先に遷宮ありしや又はその後なるか不知
鐘樓洪鐘刻信州伊那郡伊賀良庄上河路郷畳秀山開善寺文和四乙未年九月六日再佳中山清闇常住修造餘は磨滅見へずいかなる子細によつて當寺にある事知れず古へ戦(國)のみぎり引來りよし俗に云ひ傳ふといへども其證詳ならず