桜雲橋(高遠城址) について知っていることをぜひ教えてください

  • ここから満開の桜を眺めると雲の様に見えることに由来する。
  • 近世には本丸の城門に渡された平橋があり、山本勘助が考案して籠城の際に落とす事ができる仕組みがあったとされる。
  • 明治期には本丸二ノ丸との間ではなく、南曲輪との間に架けられた橋を桜雲橋と記した記録「上伊那郡高遠町兜城公園風景/明治32年(1899)」もある。この記録では、今の桜雲橋の位置に架けられた橋は「公園橋」と記された平橋として描かれている。それより前の「旧高遠城之眞景/池上秀畝/明治27年(1894)」では、二ノ丸と本丸を繋ぐ現在の桜雲橋の位置には太鼓橋のように見える「本丸橋」が記載されている。
  • 昭和39年(1964)に平橋(戦後の初代)に替わり太鼓橋(戦後の二代目)が架けられた。昭和40年4月(1965)には融雪期の土の緩みで二ノ丸側橋詰の橋台部の石積が崩落し、一時通行不能となった。アーチがきつく歩行者にけが人が出たため、昭和54年(1979)発行の「高遠町誌下巻」には昭和42年3月(1967)に架け替えられたとされる(戦後の三代目)。この間、太鼓橋のアーチがきついところから、橋板の隙間に歩行者のハイヒールのかかとが入り足を挫く事故が発生したため、三代目ではアーチを緩くする改修があったとも言われる。
  • なお、高遠町観光協会が発行した「高遠案内」には昭和41年(1966)版と昭和51年(1976)版があり、どちらの版も口絵で「今の高遠公園の桜」として本丸から高遠閣と桜雲橋を収めた白黒写真を掲載している。この写真では桜雲橋は太鼓橋でなく平橋のように見える。昭和48年(1973)4月発行の「広報たかとお第50号」でも表紙にほぼ同様のアングルで桜雲橋が写されているがこちらは太鼓橋となっている。「高遠案内」では、発行年以前に撮影された写真が使用された可能性がある。
  • 昭和58年(1983)5月の「広報たかとお第173号」には「擬木に架替えられた桜雲橋」の記事がある。このとき橋脚は2セットからスパンほぼ中央の1セットのみとなり、太鼓橋のアーチの曲率はさらに緩くなったようである。2017年現在の桜雲橋はこの時の橋で、戦後の四代目の桜雲橋と考えられる。

桜雲橋の橋台と橋脚

本丸側橋詰の問屋門(奥に桜雲橋)

ライトアップされた桜雲橋