花畑 (東高遠)について知っていることをぜひ教えてください

  • 明治初期には、御家中十六町の花畑町を中心とする大字として採用された。その後、四番組を経て、現在では、高遠城址の南東三峰川に面した段丘の中腹から麓にかけて近世に形成された武家屋敷下タ町久保川町横町馬場町までを含む町内名となっている。

  • 800年前頃の高遠氏の頃から、燈火用の菜種油を取るために、現在の歴史博物館の上方にある日当たりのよい南斜面を菜の花畑としたことから名付けられたと言われている。

  • 「板町落葉」の記述にも「花畑ハ昔此辺一円ニ菜種ヲ作リテ菜花爛漫タレバカク名付シト云其始ハ原畑トイヒシ」とあり、「木の下蔭」には「下町侍屋敷の下足軽長屋の辺より南の方を花畑といふミヨ山〔現在の塩ノ山〕に対せる名にして古の花畑にてありしと見ゆ今はその形もなし民俗の言ひ習はし是れに限らずさだかならねどもかかる地名なんど適〔たまたま〕残れるもみな中古より前の事なるべし」と記されている。

  • 昭和22年(1947)頃、住民の熱意により四番組を改称し、花畑の名称が復活した。その理由は昭和13年1938頃から始まった日中戦争に、四番組から軍隊に招集されて戦地に行った人たちの多くが戦死してしまうので、死番組と呼ばれ、縁起が悪いとうことであった

  • 四つ角から南方へ久保川通りの続きに延びる坂の沿線には、近世に花畑町のあった旧花畑組があり、以前はこれとは別に、高遠町営住宅を中心とした新花畑組があった。その後、移転等で戸数が減ったので新花畑組は廃止されたが、旧花畑組の隣組の名は現在までそのまま残っている。

 

地域の教科書

【木の下蔭】
下町侍屋敷の下足輕長屋の邊より南の方を花畑といふミヨ山に對せる名にして古への花畑にてありしと見ゆ今はその形もなし民俗の言ひ習はし是れに限らずさだかならねどもかゝる地名なんど適殘れるもみな中古より前の事なるべし