諏訪神社(東高遠) について知っていることをぜひ教えてください
- 祭神は建御名方命である。諏訪大明神とも呼ばれている。
- 宮ノ沢左岸に位置し、対岸に樹林寺がある。
- 天正年間(1573-1592)に仁科盛信が高遠城に入城の際、法憧院曲輪に建御名方命を勧請して城の鎮守社とした。その後、城郭の拡張のため搦手に移したことがあったが、保科肥後守正光の信仰が篤く、現在地に移して高遠藩の氏神とした。城に対し鬼門にあたる今の地に移したともされる。
- 元は八幡信仰があった地とされ、社地には八幡社も合祀されている。そのほか天神様やお不動様など合計7社が合祀されており、昭和期にはお供えを7つ用意していったが、徐々に7社の所在が不明になっていった。
【高遠案内,高遠町観光協会,1966】
西竜寺の北にあり、建御名方命を祀る。天正年間仁科盛信が入城の時、城内の法憧院郭に勧請して城の鎮守としたと伝えられる。後保科正光が今の地に移して、高遠藩の家中及び板町村の氏神とした。今の本社はその頃建てたもので、手摺の擬宝珠に「元和七年辛酉八月吉日」と刻んである。
【木の下蔭】
板町邑に鎮座まします諏訪大明神は正一位大己貴命御子健御名方命にして諏訪を内垣とし伊那郡當社の氏神なり往昔国初より當城の鎮守としてその嚮法堂院郭にあり此院出城の時搦手内今米蔵の所に遷宮す其後保科肥後守正光尊敬厚く新に今の所に社を建て移し奉る御階の葱寶球に元和七年辛酉年八月吉日と彫刻今に残り祭は七月廿六日七日を中頃より廿五六日となる
社地は往古より民人八幡の森と云ふ明神の社に並て今は八幡の祠壇あり勧請の年月其外凡て傳ふる所なし舞屋拝殿御手洗ひあり又的場ありて近邊の*卒の壮者出でて射す社人代々池上和泉と云ふ
社頭梁札
魔訶世界扶桑國信濃州諏訪大明神者迊普賢也甞爲衆生濟度共日安闇諏訪大明神誠天下談士庸人搏子無不崇敬之然者古來勸請此地年尚矣丁於斯時古廟荒廢鴟吻斜于爰郡主神氏正光建立焉了者欄干如磨玉盤焉寔夏盤銘臺殿宇漫室易及焉王善盡美盡矣伏冀憑動力壽算綿延武運長久
于時元和八龍集壬戌夷即念日
神主 板町村 右近
大工 池上五郎右衛門正忠
井澤忠左衛門次繁
小工 坂口久助侶次
寶物に小札のうへを黒のなめし皮にて絃走りの如く前後左右をつつめる古胴丸あり往古の物と見えたり兜なく胴ばかり袖に手もなく草摺ばかりにて浅黄糸の索かけなり又黒柄の古き鑓木にてきざめる面の如きものありいづれの世に誰れ納めたりとも忘れず寶物と成りてありとぞ
宮殿破壊するによつて延享五戊辰年六月新たに造営有之今の宮なり
神慮若葉に深き宮居かな
雪に位を増すや宮居の白幣