追手(高遠城址) について知っていることをぜひ教えてください

  • 高遠城の表門に由来する。大手の表記も見られる。大手口とも呼ばれ、大手門があった。門の跡には石積みが残り、石積みの一部が復元されている。

  • 大手門に到る坂は追手坂と呼ばれている。

  • 築城の当初は追手が東の山側にあり、搦手が西の川側にあったが、享保年間(1716-1736)の「高遠家中屋敷図」には、大手が西に搦手が東に記載されている。

  • 現在、追手坂の途中にある大手門は、廃藩後の明治5年(1872)に城内から富県の医師那須隆達に払い下げられたものが、その後、高遠高校への寄贈という形で追手に戻されたとされる。昭和29年(1954)に富県の那須氏から東春近の伊藤計一に譲渡されるところを町民の買い戻し計画を聞いた伊藤が、高遠高校の門として寄贈したとされる。また移転費用には高遠高校の生徒会による町有林の下草刈の報酬が充てられたと言われる。現在見られる門は、旧藩にあった大手門の一部で、間口や奥行は半分程度に縮小されているものと考えられている。

 

追手坂と三ノ丸の石積

大手口付近からの城下町眺望

高遠高校に寄贈された門

【新撰高遠誌】
昔は、此處に厳しい門があつて、門番が常に出入を誰何し、門内には大砲を据え付けて、鉾持除に來る敵を打つべく備えて在つたが、今は唯壘々たる大石を殘すのみである、併天正の昔、織田氏が高遠城攻撃の際は水野忠重父子此口の寄手となり諏訪勝左衛門廣照・小山田大學昌眞・神林十郎左衛門定政等は下方なる楠坂に防ぎ衆寡敵せず、次第に登られて終に此處迄迫られ大木・大石を投げ落し、此下の邊りに敵の死屍の山を築かしめた所である。