鍛冶堀(高遠城址) について知っていることをぜひ教えてください
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堀の中で鍛冶の業が営まれたことに由来すると伝えられている。
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武田信玄が保護していた金堀衆による坑道と関係があるとも考えられる。
【写真と図の解説】
- 鍛冶堀は近代になって運動場整備のために埋められていった。旧図との比較から、現在の駐車場西側の法面の肩に設置された木柵の屈曲部(谷線)が鍛冶堀の痕跡と考えられる。
- 図は史跡高遠城址試掘調査/高遠城跡二ノ丸・三ノ丸ほか/高遠町教育委員会/2004年より。9図と10図の本丸の西側、勘助曲輪(勘介曲輪)の北側に鍛冶堀が描かれている。なお、同調査のトレンチ箇所で発掘された堀の幅は21mあったとしている。
【木の下蔭】
武具蔵の所より勘助曲輪へ下る坂を古しへは金山坂と唱へけるよし二の丸埋門の西の方折りまがりたる堀を今も鍛冶堀といへるは思ふに昔は此堀の中にて鍛冶の業せし時上の方に金山彦の神を勧請せし故の名なるべし