長野県伊那市高遠町にある高遠城址公園内南郭に明治30年(1897)に建てられた碑。
発起者 本郡各寺院
筆者 彰仁親王
建立 明治30(1897)年1月18日 各寺院・本部
所在 高遠城址公園南郭
歴史 価値ある招魂碑 参考文献 |
歴史
日清戦争終了1年後の明治30(1897)年1月18日、明治維新後の戦没者および満蒙開拓人殉職者の慰霊を目的として、上伊那仏教会・上伊那尚武会が中心となり建設された碑である。
その後、第2次世界大戦の敗戦により米軍が進駐し、長野県庁にマッカーサー(米軍総司令官)の名により教育部ができ、昭和23(1948)年4月ケリー将校が高遠町役場へやって来た際に黒河内町長と面談した際にマッカーサーの命令といい、「公園内にある靖国招魂碑と、それに付属する一切の戦争遺産と思われるものを全部撤去」と要求され消失の危機が生じた。 この碑を長く守ってきた高遠町の元軍人関係の人々により結成された高遠町八日会であったが、その報告を受け急遽八日会を開催し町には関係なく八日会の責任において夜になってから、裏側に大きな穴を掘って碑を埋めることを全員の賛成により実行した。
昭和28(1953)年に日米講和条約が締結され、それまで6年間土中に埋められていた招魂碑を再び掘り出すことを、ハ日会が中心となり東部靖国会、町内の商店街篤史が寄付金を集め再建された。この際に文字に埋め込まれた金箔はすべてはがれてしまった言われている。
価値ある招魂碑
碑文には「靖国招魂碑」と刻まれているが、「靖国」という言葉で呼称されている慰霊碑については、東京・九段の靖国神社と、高遠城址公園にある招魂碑だけであると言われている。
参考文献