高遠城の歴史


高遠城は、天文14年(1545)諏訪氏の一族で、当時一帯を領していた高遠氏を破った武田晴信(信玄)が伊那谷支配の一拠点とし築いた新城です。

信玄が没し、子の勝頼の時代、天正10年(1582)二月、織田信長は急激に勢いを失った。

武田氏を一挙に滅ぼすため伊那口より長男信忠の率いる五万の兵を送り込む。高遠城を守る26歳の青年城主・仁科五郎盛信は三千の手兵をもって大軍を迎え撃ったが兵力の差はいかんともしがたく三千の兵はことごとく討ち死に、城主盛信も割腹した。この戦いについては園内の立札「古戦場跡(高遠城の戦い)」に詳しい。

 

 武田信玄の五男仁科五郎盛信が織田信忠と戦い、壮絶な死を遂げた高遠城。廃藩置県で城を撤去、昭和48年国の史跡の指定を受けて、現在は「天下第一の桜」が咲き誇る美しい公園となっています。

 平成18年2月には、日本城郭協会により高遠城が「日本100名城」に指定されました。

公園内のみどころ

 

  • 明治8年(1875)に筑摩県により高遠公園地が決定された。当時の公園区域は本丸のほか、笹曲輪勘助曲輪南曲輪であったとされる。この頃、筑摩県管内には5公園があったという記録がある。5公園は、高遠公園のほか、松本の城山公園(犬飼城址、蟻ヶ崎城址)、高山の城山公園、諏訪の高島城址、木曽福島の水無神社境外であった。現在の長野県内では、明治5年(1872)に指定された松本の城山公園に次ぎ2番目の決定で、明治9年(1876)の高島公園よりも早くに決定されたと考えられている。
  • 筑摩県通達にある「漸次花樹楊植等ノ適宜ノ見込ヲ樹立」という公園整備の指針に応じて、三番組に住む旧高遠藩士の兼子八十治が「花樹」として桜の移植を提案した。
  • 明治8年(1875)頃から三峰川左岸の桜の馬場より公園への桜の移植が始められた。
  • 明治26年(1893)の高遠城跡公園の公園管理規則によれば、報酬のある公園理事6名により管理し、無給の「公園守」1名を置いていた。公園守は、園内に居住して園内の清掃を行い、樹木や花、工作物の保護に携わっていた。(わが国における都市公園管理制度の変遷に関する基礎的研究/1991/金子忠一)
  • 大正8年(1919)に北原白秋が来園している。文学関係者としてほかに、昭和8年(1933)に今井邦子、昭和18年(1943)に吉屋信子、昭和35年(1960)に久保田万太郎が来園している。美術関係者では、昭和18年(1943)に高遠出身の池上秀畝が、昭和27年に中川紀元が正木不知丘とともに来園している。
  • 大正15年(1926)に伊那高等女学校八木貞助とともに公園に訪れた植物学者の小泉秀雄が公園の桜をコヒガンザクラと同定したとされる。平成2年にさくらシンポジウムで来園した林弥栄が高遠の固有種であることを認め、高遠を冠してタカトオコヒガンザクラと命名した。
  • 昭和33年(1958)に公園を含む地域が三峰川水系県立自然公園に指定された。
  • 昭和35年(1960)に「高遠のコヒガンザクラ樹林」が長野県の天然記念物に指定された。昭和50年(1975)には高遠町町政100年を記念して「町の象徴」をコヒガンザクラに決定した。昭和54年(1979)には高遠町により桜の保護育成などをうたった桜憲章が制定された。昭和61年(1986)には高遠町合併30周年記念行事として「ミスコヒガンザクラ高遠コンテスト」が行われた。このミスコンは平成4年(1992)までは毎年続けられていたことが確認できる。
  • 昭和42年(1967)発行の上伊那郡誌によれば小彼岸桜が数千本の純林をなしているとされ、高遠町の広報によれば、昭和48年(1973)には1400本、昭和50年(1975)には1300本のコヒガンザクラがあったとされる。昭和48年(1973)初版の「高遠ガイドー伊那谷の城下町ー」の改訂5刷(1984年)では、「現在」として、50年生以上が230本、30年生以上が260本、若木が800本以上としている(合計1290本以上)。2017年現在、約1500本(130年生が20本、50年生以上500本、30年生以上300本、30年生未満750本程度)があるとされている。
  • 昭和44年(1969)には公園内に東高遠児童遊園地が整備されている。
  • 昭和48年(1973)に高遠城跡が国指定の史跡に指定された。
  • 昭和51年(1976)に都市公園法による都市公園となった。
  • 昭和54年(1979)頃から専任の桜守が置かれた。初代桜守の岩崎善信は、観桜期以外の公園の魅力として、秋の紅葉の観光を目的にモミジを植えることを提案していた。
  • 昭和58年(1983)に観桜期の有料制が導入された。当時の入園料は200円で、その年の入園料収入は約2800万円であった。それ以前の公園の収入は、露店と高遠閣の使用料収入のみで昭和54年(1979)度の使用料収入は約250万円で、公園の維持管理費として当時支出していた約1000万円をまかなえていなかった。有料制導入にあたっては、小諸の懐古園上田城跡に視察し、参考とした。
  • 平成2年(1990)に日本さくら名所100選に選ばれた。
  • 平成2年(1990)に第9回全国さくらシンポジウム(国際さくらシンポジウム THE INTERNATIONAL SYMPOSIUM ON FLOWERING CHERRIES)が高遠町財団法人日本花の会により開催された。シンポジウム1日目の4月19日には小松左京が記念講演を行い、「日本のさくら、世界のさくら」というテーマで、安田浄がパネリストをつとめ、小松のほか、ローランド・ジェファーソン、キャサリン・オリバー、小林義雄、坪内ミキ子がパネルディスカッションをしている。2日目の4月20日にはジョン・ボンドと林弥栄が基調講演を行い、プロアーニョ・ガリンドウ、渡辺定元らが研究報告をしている。
  • 令和2年(2020)に,第11回伊那市新型コロナウイルス感染症対策本部会議において、感染予防対策の強化を図るため、4月4日から桜の散り終わりまでの公園の閉鎖が決定された.

 

国指定史跡の碑とさくら名所100選の碑

 

【木の下蔭】
高遠の城は信州伊那郡笠原の庄にて甲山の城といふかぶと山と名付るいはれをしらず其形を以て云ふにや東に山聳え西に嶮岨の桟道あつて南に三峯川北に藤澤の流れをかかへて伊那第一の要害なりとぞ其嚮元歴元年笠原平吾頼直といふ者築之といへり其後世々の興廃治亂等の事は古き書ともに普く記し侍れば今更言ふに及ばずただ民俗の言ひ習はせるよしなし事の一二をあげて書顕すのみ