高遠学校とは、現在の高遠町図書館の位置にあった、小学校である。

高遠学校創立まで

信州高遠藩の藩校である進徳館が、明治5年(1871年)廃藩置県に伴って廃校になった後、同年7月高遠県学校となる。しかしやはり同年11月には府県の統合が行われ高遠県が筑摩県に統合されたため、高遠県学校も廃校となる。明治5年8月に、西高遠建福寺を仮校舎として、筑摩県管内第十八小校が創設される。これは筑摩県の学校創設勧奨により、郡内東部一円を学区として早々に開設された郷学校である。

これらの県が創設した学校に対し、明治5年に政府が制定した「学制」に基づいた学校が必要になり、第十八小校は廃止され、明治6年に時雍(じよう)小校と改称された。このとき同校より分離して東高遠西竜寺に新徳学校が開設された。こうして高遠には東西にそれぞれ一校づつ小学校が設立された。

明治19年統合されるまで13年間、高遠町にはこの二校制が続いた。その間、新徳小校は明治7年に新徳館跡に移転され、明治8年には「東高遠学校」「西高遠学校」とそれぞれ改称された。また、明治11年に西高遠学校は満光寺に移った。両校の合併は両地区民の感情・校舎の位置などの難題が絡んで容易にまとまらなかった。

明治17年に西高遠学校が現在の高遠図書館がある位置に校舎の新築を始め、明治18年に落成、開校式をあげた。これにより明治5年以来続いていた仮校舎住まいに終止符を打った。明治19年に東高遠学校や、近隣の上山田・下山田・勝間の5校が合併統合し上伊那郡立高遠学校として発足した。

義務教育の推進により、明治14年には児童の出席率が68%程度だったものが明治18年には96%となった。

尋常高等小学校

明治21年、小学校令の実施により、上伊那郡立高遠尋常小学校となった。このとき高等科が分離して上伊那郡立高等小学校の高遠分教場となった。明治25年上伊那郡立高等小学校が廃止されるとふたたび高等科と合併し、上伊那郡立高遠尋常高等小学校となり。この後昭和16年高遠国民学校と改称されるまでこの校名が続いた。

明治24年には校舎増築を行う。明治30年代になると子守学級、特別学級(製糸工女対象)などを開設して修学困難な子女への教育普及を考えた。

明治20年代は国家主義の高揚期であった。やがて日清・日露戦争へと発展し、出征兵士の見送りや軍人の武勇伝、戦死者の町葬儀への児童・生徒の参加が多くなった。