大丸 円照寺      大丸の社寺・仏閣へ戻る

稲城市大丸の臨済宗建長寺派寺院  多摩川三十三観音霊場28番札所

 

臨済宗建長寺派寺院の円照寺は、大寿山と号する。

円照寺の創建年代は不詳。

明岳哲和尚が天正15年(1587)、中興したと言う。

 

新編武蔵風土記稿より

大丸村、円照寺 除地、凡三段許。

字東方にあり。大寿山と号す。

臨済派、橘樹郡菅村寿福寺末、開山の僧を傳へず。

中興開山を明哲西堂と云。慶長六年九月十六日寂せり。

本尊十一面観音坐像にして長一尺五寸ばかり。

客殿七間半に五間東向也。

 

寺宝。 釈迦像一体。木像なり。長九分ほど、厨子の扉に録して云。天竺酉佛師十六歳之時作武蔵大守源朝臣片山武蔵守家信公主とあり。年代をしるさざること恨べし。

午王ノ玉一顆。円径四寸八分ほどすべて毛あり。又口とおぼしき所あり。相傳ふ本朝四顆の一なりと。土人これを拝せばかならず奇特の験あり。中にも疱瘡にはわきて霊験ありと云。

十王堂。客殿の巽にあり。三間半、正面に地蔵を安し、左右に十王を列せり。

 

稲城市掲示による円照寺の縁起より

臨済宗の建長寺派に属し、川崎市多摩区菅の寿福寺の末寺である。寺院明細帳によると、明岳哲和尚が天正15年(1587)に再興したと記されている。現在の建物は、安永8年(1770)に改修された物と言われている。本尊は十一面観音菩薩である。本堂の手前の池は、現在は水涸れであるが、十数年前までは湧水をたたえていたという。(17.3.29現在幾分、池の痕跡に僅かに水を湛えていました)

この池には「舌を抜かれたお獅子」という昔ばなしが残されている。

明治以降は、現在の第三小学校の全身である大門学舎(明治3年)、大円学校(明治7年)、済美学校(明治11年)の教場として使われ、教育の面でも大きな役割を果たした。

一説によると隣接する、大麻止神社の「大麻止」「大的」が「大圓」「大丸」と変化し、地名になったと云われている。古多摩川が大麻止神社・円照寺の前まで来ていて、多摩川の渡しがあり、渡河要衝であったため、山には隣接して「丸山城」が在った。

 

●二十三夜塔 自然石 台石 安政四年(1857) H131 W97 D20 (市・二十三夜塔1号)↑右

●庚申塔 笠付型 青面金剛 一面六手剣人 日月・一鬼・二鶏・三猿 

左「奉建立庚申供養…」 「享保8年」(1723) の刻 (市・庚申塔19号)↑左

 などがある。その他・・・

●宝塔 笠付型 十二仏円柱 台石 宝暦四年(1754) H375 W106 D106 (市・その他の石造物5号)↓