御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所(しょやくしょ)と、城主の公邸が連結した建物。

掛川城御殿は七棟からなる書院造で、部屋はそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれている。
最も重要な対 面儀式が行われる書院棟は、主室の御書院上の間と、謁見者の控える次の間・三の間からなる。
藩主の公邸の小書院棟は、藩主執務室である小書院と、藩主の居間として使われた長囲炉裏の間からなる。
東側は藩政をつかさどる諸役所の建物で、目付・奉行などの役職の部屋、警護の詰所、帳簿付けの賄方、 書類の倉庫である御文証などがある。
小書院棟の北側には勝手台所があったが、明治時代に撤去されてた。
 江戸時代には身分によって入り口が異なっており、藩主や家は式台玄関から、その他の武士は玄関東側から、足軽は北側の土間から入った。

当初は、本丸にも御殿がつくられたが老朽化したり災害にあって、二の丸に移った。
嘉永7年(1854年)大地震で倒壊したため、現存する御殿は、時の城主太田資功によって、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたもの。
 安政2年から明治2年(1869年)までの14年間は掛川藩で使われたが、廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附され聚学校として使われた。その後も女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され続けた。

昭和 47年から50年まで保存修理が実施され、昭和55年1月26日、国の重要文化財に指定された。

現存する城郭御殿は、二の丸御殿としては京都二条城と掛川城のみで、本丸御殿が現存する高知城と川越城を合わせても全国で4箇所しかない貴重な建築物である。