掛川城天守閣は、外観三層(がいかんさんそう)、内部四階から成る。六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きなものではないが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せている。 

1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せた出現期の天守閣のなごりといえる。白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は、京都聚楽第の建物に、黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えらる。 

1604年(慶長9年)の大地震で倒壊し1621年(元和7年) に再建されたが、1854年(安政元年)旧暦11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。その後、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみであった。

1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建し、掛川のシンボルとなっている。

多くの書籍などでは「復元天守」として分類されているが、その外観は1621年(元和7年)に再建された天守ではなく、山内一豊が築いた初代天守を想定しており、しかも絵図などの資料が残っていないため、一豊が掛川城の天守と意匠をあわせて建てさせたとされる高知城の天守を参考にしている。
そのため「復興天守」と紹介されることもある。