上富田町朝来の梅田地区は、今では町の中心地になっていますが、昔は大きな渕(ふち)であったといわれています。 この渕(ふち)には、大蛇がすんでいて、里人に害を加えのちに近くの山を崩して埋めた良田加え、人々はおそれて近寄らなかったが、旅僧が祈(き)祷(とう)したといいます。のちに近くの山を崩して埋めたて良田を作りこの付近を「埋田」と呼びましたが、それが現在の「梅田」になったとつたえられています。 この地に祀られていた梅田神社は、明(めい)応(おう)年(ねん)間(かん)に勧(かん)請(じょう)されたといわれていますが、明治四十一年三月、櫟(いち)原(はら)神社に合祀され、その跡地に小学校が建てられました。 梅田神社の祭礼は正月七月に行なわれ、藁(わら)縄(なわ)で大蛇の形を作り神前に供え、式のあとで引き出して部落に分かれて綱引きをし、勝った方がその年の稲の豊作を祝いました。 また祭礼には村内から一名の童女を選び、盛装させて拝殿に伴う風習があり、これを「一時女郎」と呼びました。祭の神事は、村内の円鏡寺の住職を迎えて行なわれますが、神社から七回迎えの使者を出し、八回目に途中で出会い神社に向かう「七度半の使い」という習わしがありました。 住職は礼拝の後、土器で一握りの豆を煎って神前に供え、祈祷(きとう)しながら弓を鳴らし、豆を撒いたといいます。 のちに神官がこれを行うようになり、寺僧を迎えることがなくなりましたが、これらの行事はいずれも大正年間にとだえてしまいました。