富田川の支流で上富田町の旧岡村を流れる川を岡川といいます。小さな川ではあるが、その割に耕地面積が広く、土質が粘いので良質の米を産します。田辺藩主安藤公の飯米も岡米だったといわれます。それだけにこの川筋は米作りに熱心であったが、肝心の水が不足するので谷々には貯め池を造って水をたいせつにしていました。
ある年の冬、岡川上流のクロン谷をせきとめて池を造ることで、村の衆が集まって幾晩も相談が続けられ、やっと話がまとまりかけだが、そのとき一人の老人が、
「わしは鉄砲水の一ばんおそろしい所に住んでいる。万一堤防が切れるようなことがあったら、そのときの損害をみんなで持ってくれるのでなければ、わしは仲間に入るわけにはいかん。割当ては出せん。」
と言い出しました。せっかくまとまりかけた話に横槍が入ったので、人々の非難がこの老人に集中しました。しかし、老人は自説をまげず譲らなかったので、結局話は白紙に戻ってしまったといいます。それで今でもクロン谷池跡は堤防が半分切れたままで、ハンキノ原になっています。一方、この老人は村八分(掟や秩序を破ったものに対して課される制裁行為であり、一定の地域に移住する住民が結束して交際を絶つこと)にされたということです。
ところが、この老人については、洪水に備えて慎重であったもう一つの伝承があります。いつのことかはっきりしないが、岡川堤防の復旧工事の折には、この老人は人夫たちに振舞酒を出し、石垣の間に赤土を入れて念入りに講じたというのです。その堤防はいつの大雨にも決壊しなかったといい、村人はその老人の名をとって藤助土手と呼んでいました。
この老人が買い取った字山の松で一本切り残していたのだが、年を経て大松隣、人々は藤助松と称してその枝ぶりをほめていたが、昭和四十六年に松喰虫のために枯れてしまい、今は見ることができません。

<熊野文庫より引用>