このページは、「塩屋」について、二代目紀三井寺・名草リージョンの管理者 Toshiharu Takamatsuさん(以降TTさん)から、ある日Facebookグループ地域ライタークラブ&フレンズに次の謎がPOST(投稿)され、その後、私(松山浩士)とのこんな会話からスタートしました。


はじまり

(2016.01.29)

TTさん: ちなみに塩屋あたりの伝統の塩の精製方法とかも伝承されてないのかなとかも気にはなります。

私:飛ばすねえー。そもそも塩屋で「塩」作ってたってことですか?

TTさん:裏は取れていませんので何か探したいですね。

TTさん:作っていないとすると卸はあったんではないでしょうか?

TTさん:そうすると塩を使う食べ物で特産があっても良さそうですね。お城に納めてたとか。

(2016.01.30)

TTさんは、和歌山三年目、私は原住民。

私・・・(塩屋の地名なんか気にしたこともなかったなー。塩作ってたってか、ほんまやったら・・・ちょっと・・・おもろいな。)

私:「塩屋」という地名は日本に10ヶ所、その意味もそこそこ当たってるみたいですね。興味深くなってきました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E5%B1%8B

TTさん:京都でも木屋町は材木屋多いとかの由来なんでそういうことかなと前から思ってました。

TTさん:和歌山の場合は魚つけて都に持っていく塩というよりも梅干し用の塩とかなのかなと想像してるんですが、果たしてどうなんでしょう

私・・・(そうかあ、確かに、塩つくってなくても、なんか地名の由来みたいなものはあるんやろなあ。気になる)

私・・・(よし、今度、紀州経済史文化史研究所へ行こう。あそこなら、なんかわかるやろ。)

(2016.02.05)

紀州経済史文化史研究所(和歌山大学内)吉村旭輝先生を訪ね、謎解きの糸口を教えてもらう。

まずは、「和歌山県の地名」で調べるべし。

こんなことが書いてありました。

塩屋村:現和歌山市塩屋1-6丁目・・・「続風土記」によれば、「此村西南に御坊山・愛宕山を負ひて東に雑賀川を帯ひ、一湾曲の地にして古は海浜の村なれは専塩を焼しより村名とはなれり、土俗小塩屋といふ」

塩屋村で塩が作られていたのは確かなようです。ということは、TTさんの最初の投げかけのとおり、

#G1「塩屋村の当時の塩の精製方法を明らかにする。」

これが今回の謎解きGOALのようです。


調査に行こう!~みんなで書こう調査日記~

(2016.02.06)

◆地域ライタークラブ&フレンズに、二つの情報が寄せられました。 

  1. 御坊市に塩屋町という地名があります。・・・津村雅枝さん
  2. 医大に塩田跡の碑があります。和歌川下流両岸は塩田だらけやったようです。

場所は旭橋の東詰を病院正面の方曲がり、少し進んだ右手の植え込みの中です。・・・山本智子さん

二人は、NPO法人市民の力わかやまの方でFacebookグループの地域ライタークラブ&フレンズに参加されています。

まず、和歌山県内の御坊市にも同じ「塩屋」町という地名があること、御坊市と和歌山市は50km程度しか離れておらず塩の製法も似ていた可能性があり、こちらも調べてみる価値はありそうです。#G1-1「御坊市の塩屋町で行なわれていた塩づくりについて調べる」(和歌山市の塩屋村)-(同じ地名)-(御坊市の塩屋町)

次に、医大(和歌山県立医科大学)に塩田跡の碑があるということですが、碑はいつ、誰が建てたのか、碑には何が書かれているのか?現地にいって確かめてみるのがよさそうです。#G1-2「和歌山県立医科大学前にある塩田跡の碑を調べる」(塩作り)-(塩田)-(跡地の碑) --松山

◆先に調べた文中に気になる箇所が2箇所ある。

①「古は海浜の村」ということは、塩屋は浜辺だったことになり、すなわち目の前は海だったことに。塩屋のあたりまで海だった時代はいつなのか?

②「専塩を焼し」とあるが、「塩を焼く」とはどういう意味なのか?

私の方は先にこの二つの問題を解くことにしましょう。#G1-3「塩屋のあたりまで海だった時代はいつなのか?」(塩屋)-(過去の地形)-(海浜) #G1-4「塩を焼くとはどういう意味か?」(塩)-(?)-(焼く)--松山

 

(2016.02.07)

G1-2:和歌山県立医科大学附属病院前にある塩田跡の碑について

国道42号、旭橋の東詰を医大病院の方に曲がり、少し進んだ右手の生け垣の中に「紀州藩塩田跡」の碑があります。

碑文には、

 江戸時代以前から明治の末期まで、三葛、紀三井寺を中心とする和歌川下流一帯には見渡す限りの塩田が広がっていて、住民の多くは、製塩を業としていた。このあたりの製塩は、古代から行われていたと伝えられるが、近世末頃全盛期を迎え、塩田面積約五十町歩、塩の生産量年約千五百石もあって、和歌山城下はもちろん紀州藩外へも供給された。

「紀伊国名所図会」には、鹽竃の項に、「三かつらを重にして紀三井寺、和歌等の名産なり 他所に比類するものなし」とあり、また、「紀伊続風土記」にも三葛村の一節に「村民多く塩を業とす、塩味最美にして味噌醤油を作る料となすべし」と書かれている。

平成十一年三月 建立 和歌山県

とあります。山本智子

 

 

(2016.02.07)

◆まずは、和歌山市博物館にいってみよう。

和歌山市立博物館にいけば塩作りの道具が展示されてるはずと、かなり安易に考えていた私は、家の用事を午前中にすませた後、遅めのお昼を食べ、時計もそろそろ2時半になってから、ようやく、「よっしゃ、サっといって、スっと調べてくるか、」と自宅を出発した。

博物館の場所は知っていたが、もう何年も行ったことがなく、車を走らせているうちに、「以外とつかんなあ」と時計を見るともう3時半。「4時に閉まる博物館はないやろ」と言い聞かせながら、和歌山市駅を過ぎたころようやく博物館が見えてきて、転がり込むように駐車場に車を止め、小走りで入り口まで走っていくと、「入館は4時半まで、5時閉館」と書かれていた。4時5分だった。

残り時間1時間ということもあって、入場券を購入するカウンターで、受付係の女性に「展示場の中で塩の展示はどこですか」と訪ねた。

すると、「塩の展示はございません」といわれた。少し黙っていると。「どうされますか、入館されますか」と続けて聞かれた。

「あ、はい」と答えて、100円玉を払い、目的を見失った博物館に入館した。

 

建物は2階建てで、1階から順に見ていった。もしかしたら、と思ったがやはり塩に関する展示は一つもなかった。

そんな中で、唯一発見したのはこんなパネル展示だった。

 

500年前の市内の地形。「あ、紀の川がない」。紀の川らしき川の流れは、直接海に流れ込まず、南に直角に曲がり、今の紀三井寺の目前を流れならが海に流れ込んでいた。

2階に上がり、学芸員の方に聞いてみた。「塩のことはまったく不勉強で知りませんが、このパネルは、現在の砂山や吹上の場所が大きな砂丘になっていて、大洪水の結果紀の川が現在の紀の川になった時代、川の流れが変わったことで、紀三井寺周辺にも体積が進み陸地になりました。集落という概念ができてくるのは室町の後期、戦国時代のことですから。おそらく「塩山村」というのもその頃に名づけられたのではないでしょうか。」

塩山付近が浜辺だった時代は、少なくとも室町以前、古代から中世だったのではないかと思われます。

 

 

私の自宅は紀の川市なので、帰路は紀の川に沿って帰ったのですが、この大きな川が500年前にはなかったという事実、なかなか普通では想像できませんし、もっと驚いたのが、砂山や、吹上が、今の鳥取砂丘のような大きな砂丘地帯で、目の前まで海がせまっていて、紀三井寺などはそんな海辺から直接長い石段を登るようにそびえ立っていて、今でもそんな風景だったら、どんなに楽しいかと、一人ほくそ笑んでしまうのです。--松山

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2016.02.09) 

◆和歌山県の塩事情。 by TT

   公益財団法人の塩事業センターという存在を発見。各県別の塩の歴史が書かれた「塩風土記」というものがありました。

       和歌山の地形では広大な土地が取れるところがないというので、天日干しではなく海水直煮法が主流との記載があります。     

         また、日本書紀のころより日本ではシオツチノオジであったり塩竃明神といった塩の神様への信仰があったようです。        

         現在の二里ヶ浜の近くに西庄遺跡という遺跡があるそうで、製塩土器もでてきているようです。 

 

(2016.02.12)

◆謎から連想される新しい謎と寄せられた情報

その後も地域ライタークラブ&フレンズは塩屋の謎から連想される新たな謎の提起と参考情報が寄せられましたので幾つか照会させて頂きます。

(連想された謎)

  • 塩は、どのように消費地に運ばれたかも追加いただければありがたいです。・・・Yoshiharu HIrumotoさん
  • みそやのルーツ?紀ノ川を舟で和歌山から塩を運んできて500年位前には橋本でみそを作っていた。・・・Yoshio Taniguchiさん
  • 三葛の語源も気にはなっていますが・・・Toshiharu Takamatsuさん
  • 鹽竈神社もなんか関係ありますかね?・・・山本 智子さん
  • 橋本で塩市があった歴史の痕跡があるのでしょうか?興味がわきます。・・・鶴谷博さん

(提供された参考情報)

塩事業センター:http://www.shiojigyo.com/a040encyclopedia/encyclopedia3/encyclopedia3_1/post_365.html

塩事業センター:http://www.shiojigyo.com/a040encyclopedia/encyclopedia4/encyclopedia4_2area/map30/

和歌山市の地名:http://tutui0330.com/timei12.html

和歌浦の風景:http://www.nwn.jp/old/kakokizi2011/20110416/wakaura2/13.html

ADEAC:https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2920705200/2920705200100010?hid=ht000350

ゐざさ:http://www.izasa.co.jp/brand/history/16.html

(2016.02.13)

◆現在の謎マップを更新しました。

一つの謎からはじまり、連想によって新しい謎が提起され、有益な情報提供と調査が進み現在6つのテーマ(製塩/流通/販売/加工/神話/万葉集)と20の副問題として謎マップが拡張されてきています。

番号 問題 枝番 副問題 調査状況
G1 塩屋村の当時の塩の精製方法を明らかにする。 G1-1 塩を焼くとはどういう意味か? 済み
G1-2 御坊市の塩屋町を調べる 未着手
G1-3 医大前にある塩田跡の碑を調べる 済み
G1-4 塩屋のあたりまで海だった時代はいつなのか? 途中
G1-5 紀の川の河川の変遷を調べる 途中
G1-6 「藻塩焼き」で塩を作る 途中
G2 紀の川下流域の塩の流通を明らかにする。 G2-1 三葛塩船はいつ頃誰が運営していたのか? 未着手
G2-2 三葛塩船の運行ルートと荷積み場、荷揚げ場は? 途中
G2-3 旧街道を使った陸運ルートはなかったのか? 未着手
G2-4 紀の川下流域の塩はどこまで流通していたのか? 未着手
G3 紀の川下流域の塩の販売を明らかにする。 G3-1 塩の市が開かれた場所は? 途中
G3-2 販売元、販売先は誰? 未着手
G4 紀の川下流域の塩で作られた加工品にはどういうものがあるのか。 G4-1 橋本市の500年前の味噌のルーツを調べる。 途中
G4-2 湯浅醤油との関係の有無を調べる。 未着手
G4-3 橋本市の柿の葉寿司 途中
G4-4 橋本市のさば寿司 途中
G4-5 和歌山市内のなれづし 未着手
G4-6 塩と和菓子 未着手
G5 紀の川流域の塩と神話と神社の関係を明らかにする。 G5-1 塩の神話と紀の川流域の神社 途中
G6 紀の川流域の塩と万葉集 G6-1 塩に関する万葉集を調べる 途中

(2016.02.16)

◆塩屋村の当時の製塩方法、一旦の謎解き。

 Toshiharu Takamatsuさんが塩屋地名の謎を提起されてから今日で2週間と4日、有益な情報をネットを使って調査し、結果をソーシャルネットワーキングサービス(SNS:social networking service)を使って交換しました。

もちろんフィールドワークを楽しんだ方もいて、キーワードを持ち帰ってくれたことで謎解きが進みました。

簡単に振り返り

まず、 「塩屋」という地名にまったく素人だった我々でしたが「紀伊続風土記」の記述から、当地で塩が作られていたことを発見しました。

また、それはかなり昔、古(いにしえ)からおこなわれていたという史実と、当時塩屋近辺の地理が「海」と「砂丘」だったことに驚かされました。

そして、和歌山県立医科大学前に塩田の碑があるという情報がよせられ、フィールドワークにでかけるメンバーもいらっしゃいました。

その碑には、三葛村で製塩された塩が川を使って運搬されていたという史実が書かれており、どうやら、古代から明治期まで長い間、この地域では製塩の歴史があることがわかってきました。

また、塩を「焼く」という表現がヒントでした。

製塩に関する情報はネット上で見つけることができ、その中でも「たばこと塩の博物館」に掲載されている時代と製塩技術が参考になりました。

その後、紀の川の氾濫によって河川の流れがかわり、徐々に塩屋地域も土砂が積沖し海から土地になった時代が、室町後期であることもわかりました。

(2016.02.27)

まとめ

塩作りは古代からおこなわれており、時代とともに精製方法もゆっくり変遷してきたことがわかりました。

古代から室町こ後期まで「塩屋」含む一帯は海だったため製塩が盛んで、集落名(塩屋村)にも取り入れられました。

製塩方法は生産量を上げるため、「藻塩焼き」⇒「塩地」⇒「塩浜」⇒「塩田」と変遷しました。

「塩屋村」では塩づくりの原点ともいえる「藻塩焼き」がおこなわれていたことになります。

紀の川下流域の塩作りと製塩年表

-松山浩士


藻塩焼きでMY塩をつくろう!

 


現在「塩屋」地名の謎は次の問題に分かれています。過去のファイルも置いていますので、再診のフィルをご覧になって一緒に調査してみませんか。

現在までの地域ライタークラブ&フレンズでの塩屋に関する投稿はこちらです。

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