山田猪三郎(やまだ いさぶろう)は、文久3年(1863年)12月1日に紀州藩士の子として、和歌山城下の七軒丁(現和歌山市堀止西1丁目)で生まれた。少年時代から物作りの技能に優れ、研究熱心であったという。

 明治19年(1886年)イギリスの貨客船ノルマントン号が串本の大島沖で遭難、多くの乗客が犠牲になった事件を機に、猪三郎は人命を救う救助具製作の研究に取りかかる。

 明治21年(1888年)大阪に出て外国人からゴム製品加工技術を学び、明治25年に上京、ゴムを使った救難浮き輪の製造所を開設した。

 明治30年からは気球の研究に着手し、従来の気球に改良を加えて日本凧式繁留気球を開発した。日露戦争の際にはこの気球が陸軍に採用され、旅順要塞の包囲戦において敵状の偵察などの成果をあげた。

 明治43年に完成した国産初の山田式一号飛行船は全長33メートルの大きさであった。この飛行船は、同年9月8日に東京の大崎から駒場までの試験飛行に成功した。さらに改良を加えた山田式三号飛行船を製作し、明治44年7月1日に初飛行させた後、9月17日に大崎から帝都上空飛行を行い、20kmの周回飛行を行った。

 大正2年(1913年)4月8日山田猪三郎はその早すぎる生涯を閉じるが、私財を投じて気球や飛行船の研究・発明に多くの功績を残したことを称え、昭和4年(1929年)時の枢密顧問官の鎌田栄吉(和歌山市出身)らにより、猪三郎が若き日に親しんだ和歌の浦が見渡せるこの場所に顕彰碑が建立された。

顕影碑山田猪三郎飛行船