(出典:あうらのかたりべ)

古宮神社と獅子舞(龍頭の舞)

池上地区の氏神様で、祭神は石凝止目命、少名彦命合社は、稲荷木稲荷、天満宮

 宮司茂木家書伝によると、長寛二年(一一六五年)平清盛治世正月創始とあり、当神社は武蔵風土記によれば、池上村岩倉大明神古宮神社にて、寛喜二年、(一二三一年)成田次郎助忠は池上の郷の領主でありました。特に古宮神社を崇敬致し、自らも池上の地名を姓として改め、その名を池上藤兵衛と言いました。当宮司にて二十四代

 往古は岩倉大明神ととなえ、熊野権現吉田神道配下にて古き創立を安政三年神格由緒調べの際特に古宮の社号を授けられたと伝えられ、以後岩倉大明神古宮神社と称し、今日に至る。一般に岩倉様と呼ばれている。建造物も再度修復せられ、本殿(流れ造り)、拝殿(入母屋造り)、社務所(破風造り)等が昔時をしのばせる。

 神社の特殊行事として、獅子舞(悪魔除)が苗代上りと、八月二十八・九日の両日の祭礼に地区民によって奉納されています。熊谷市無形文化財指定の獅子舞はささら、と呼ばれています。さされは部落の悪霊を追払う中国より渡来した伎楽習合を祭化したものと言われていますが、当地の如く農耕地帯においては雨乞いの神事として、悪疫退散と共に重要な役目を果たしてきました。雨乞いの時は青竹をササ割りしたものと、同じく青竹にいくつものキザミをつけた(ササラ)なるものをこすり合って、水の神、竜神様を招いたそうですが今は使用しません。厄神祭に於ける獅子舞いの一行は神官が御幣を持ち、総代、メンカ、獅子(雄獅子、雌獅子、法眼)、棒使い二人、花笠四人で構成され村内各戸を廻って村境へ害虫や流行り病いを送り出します。神札を笹竹に結び、表を他地区へ向けて建てます。そして、後を見ずに帰って来ます。夏祭には神に奉納しますが、ヒョットコ、オカメなど生産を表した道化を先頭にした道中がかりより始り、門がかり、橋がかり、花がかり、最後に娘道成寺を取材した鐘巻きとなります。この他に、まわれ歯車、若衆、天神林、ささらの神などがあります。花がかりは女獅子かくしと呼ばれています。その一節「こうれのお庭に朝霧が下りて、そこで女獅子が隠され申した。なんぼ女獅子が隠されても、こうれのお庭で尋ね出申した。奥山の松にからまる蔦の根も男獅子、女獅子の縁のほぐれるときは、ほろりほろりとほぐれた」獅子舞の衣装は唐草模様の衣装にて、たっつけ袴、白足袋姿で花笠の乙女達は一張羅の祭り衣装で紅白粉で粧います。どの役も皆名誉に思い競い合って奉仕して文化財の獅子舞の保存に努力します。

 

子育て絵馬

 古宮神社に古くから奉納されている子育て絵馬は、御祭神の少名彦命(医薬の神)の御神徳にあやかり奉納する習慣がありました。絵馬には母親が赤子の乳房をふくませる姿が描いてあります。

 

稲荷木稲荷

 池上古宮神社に合祀されている稲荷様の事を「トウカキ」様と呼んでいる養蚕農家の人に厚く信仰を得ています。

 いつの世から「トウカキ」と呼ばれる様になったか文献は定かではありません。伝承によれば江戸中期の頃、当地に1人の篤農家がいました。信仰心も厚い家で、神社に日参するほどの人でした。池上の地区は昔より養蚕の盛んな土地でしたのでどこの家でも沢山の

蚕を掃き立てていました。ある年、浅間の大噴火に当地も降灰による大被害を受けました。特に鏝桑畑は惨たんたるものでした。

 生活のすべてを養蚕によって営まれた家々では生活が非常に苦しくなりました。月日がたってどうにか桑も芽生え蚕も掃立て出来るようになりました。しかい、農作物を餌にしていた野鼠がはびこり、二眠三眠蚕がその餌食となり農家の人を悲しませました。信心深い主婦の家も大きな被害を受けました。そんなころ、ある夜神社に参詣している主婦の前に白煙が立ち昇りその煙の中から神示がありました。「私は古宮に合祀されている稲荷大明神である。お前の新人深い心に感心したので眷族の白狐たちが百姓に害する野鼠を池上の耕地より追い払ってやる。」と申し、白煙と共に天の彼方へ消えてゆきました。主婦は不思議に思いながら家に帰り主人にその話をしました。家族は誰も信用しませんでした。然し蚕が上簇して繭となりましたが、野鼠の被害は皆無なので普通ハマ籠一枚で一升五合くらいしか収穫がありませんが、主婦の家では稲荷様を信仰するので斗桝にあぶれるほど収穫がありました。主婦の噂を聞いた村人達は以前に増して信仰を深くしたそうです。その噂が村から村へ広がりました。五里四方に伝わる様になると稲荷様の祭日でもないのに門前に市が出来るほど繁盛しました。そして眷族の狐のお姿交換にわれもわれもと押し寄せました。しかし時代の流れに桑畑も陸田となって養蚕も途絶えてしまいました。稲荷信仰も潮の引く如く遠のいて、わずかに土地の篤志家のみが進行するような現在ですが、それでも誰かが御姿の交換に来ているらしく、毎年新しいものが見えます。

 茂木宮司の話によりますと、稲荷木様の稲荷講が今も各地に残されていて、稲荷様の例祭の四月十八日には眷族の狐の御姿交換に来るとの事です。伝承によればこの稲荷様は昔は道下の曲輪神社だそうですが氏子達によって古宮神社に合祀されたそうです。トウカキとは斗桝にあふれる繭をかき落としたのでトウカキと言われたとも伝えられていますが真偽のほどはわかりません。ちなみに「トウカキ」稲荷と呼ばれているものに下川上字上河原地内に小さな石祠があります。稲荷木様の御利益を授け給いと念じて、池上より招請したものと言われていますがさだかではありません。