(出典:あうらのかたりべ)

生入定と比翼塚

 当時に、昔から今も、語りつがれている。悲しい恋の物語があります。それは当地、宝乗院の住職乗園坊と、それに恋した尼僧との話です。江戸も終りの頃、当地農家の長男に生まれた彼は、農家にはまれなる聰明な青年でした。二十才になった初春ちょうど無住となっている宝乗院の住職にと、村の長老に、すすめられ、本山のある京に仏道修業の為に旅立ちました。

 話はその道中に起りました。

 中仙道を一路京にのぼったのが一月も中の頃で、いく日も旅を重ねてやっと木曾路にたどりつきました。若者といえど、平地に育った身には、険しすぎる山路に寒さと疲れで、歩幅も乱れがちで、陽も西の山に沈もうとしています。運悪く雪模様となり峠の途中で困り果て、暗くなるので、心細さに家の父母を思い、仏の加護を年次つゝ四方を見渡せば、雪野の果てに一条の灯が見えました。

 旅の疲れも忘れ近づいて見れば、丸太作りの小屋がありました。さっそく一夜の宿を頼みました。中よりしばらくして女の声があり、この家は、尼寺であり庵主も留守なので男の方に宿を貸す事は出来ません。とことわられました。青年は仏門の一員として軒下を借りたいと言いますと、尼僧も長い旅路の乗園坊を見て哀れに思い、一夜の客として彼を庵に招じ入れました。差し向かういろり火のほてりが五体をうずきさせました。仏門に身を置くといえども尼僧も一人の女でした。

 一夜の宿の縁が一夜の恋となりました。

 若者は翌朝出発に際して必ず帰りに立ち寄ると言い残して、自分の出生地と寺院名を尼僧に書いて渡しました。このことが、若い二人を死に至らしめた遠因となったのです。若者は京の本山にて三年の行を積み、木曾路の事に心を留めながらも、本山の用事を兼ねて帰えりは、東海道を通って故郷へ帰ってしまったのです。

 一方木曾の尼僧は三年の月日が過ぎても、若者が立寄らないのを不安に思い、雪解けとなった春三月、武州を目差して旅立ったのです。そして、乗園坊の寺に来て見ると若者は、村民の信望を一身に集めている立派な僧になっていました。

 思いもかけぬ不意の客に乗園坊は驚いて寺下の弥勒院という尼寺に尼僧を預けました。仏門に身を置くふたりは、人目を忍んで逢瀬を重ねてきましたが、尼僧の純真を知れば知るほど乗園坊も弱り果てました。尼僧の事が村人に知れれば僧の立場がなくなってしまいます。乗園坊は尼僧に帰郷を進めましたが、聞いてくれません。尼僧としても仏に仕える身なので添えぬことは解っていました。そして思いあまったある夜、前の大川に身を投げたのでした。村人達は、尼僧の優しさに強く心を打たれ、尼僧のなきがらをふるさとの木曾が見えるようにと村一番高い丘に葬むりました。

 乗園坊はその事で、日夜心を痛め、自らの命を生入定という荒行で断ったのであります。生入定とは、別名即身仏と言い。生きたまま仏となる事です。当時の信仰にもとづき、幾日もの断食の修業を重ね、一握りの「干飯」と鐘を持って土中に埋めた木棺に入り、青竹の節を抜いたのを口にくわえて心に念仏を唱え、鐘を叩きながら、自らの命を断つという荒業なのです。土中の乗園坊は日増しに衰え、最後に近い鐘の音は、冬枯れの地に住む虫の如く、かすれて青竹を通して吐く息は寒風に鳴る笹の葉のように、ひゅうひゅうとまことに哀れなものだったと古人は伝えています。

 遺言が残され、尼僧の傍らに葬りました。

 村人達は尼僧の墓と並んで乗園坊の墓を建て、その冥福を祈りました。小さな丸い墓が尼僧のもので、大きな墓が若い僧の墓です。雪降る寒い夜は大きな乗園坊の墓がころげ落ちて、尼僧の墓を抱くように相寄るという話を耳にするたびに村人達は悲しみを深くしていました。

   この物語は、先般訃に帰した古老の病中に補述を受けたものです。

 比翼塚の所在地は下川上の通称「おんたけさん」と呼ばれている丘の中腹にあります。後世の里人は、五感の治癒祈念に入定塚に願をかけ、満願の日には青竹に酒を入れて御礼参りをします。その青竹のいく本かが寒風にからからと鳴り、乗園坊物語のあわれさを今も伝えています。そして四季折々、村人の手折りし野の花が絶えず供えてあります。