悲恋の喜十郎塚
愛染橋のたもと、池上関下地区に、一つの小さな石碑があります。
この石碑は、今から、二百三十数年前の昔、延享二年の建立です。
願主は、池上の、夏目家の遠祖、六郎右衛門であります。代々、夏目家では、戸主は、六郎右衛門を世襲した模様です。そして、非常な地区の名家でした。
里の伝えによれば、肝入の家系と、言われるが定かではありません。土地の人々は、この石碑の場所を喜十郎塚と、呼んでいます。
昔の人の話によると、次の様な、建立のいわれがあります。
その昔、土地の素封家に、喜十郎という、作男がいました。他の作男よりも、若くて、美男子であったので、村中の娘や、後家達に、さわがれていましたが、根がまじめの喜十郎は、そんな事には少しも、目もくれず、唯主家大事にと、朝は、朝星を見て、野良へ行き、昼食も野良で済ませるという程、まじめな青年でした。
ある時、いつも野良へ、弁当を持っていくはずの、下女が里帰りして、留守なので、素封家のひとり娘が代理で、喜十郎の所へ昼の弁当を持って行きました。
娘は、身分上許されない事でありましたが、ひそかに想いを喜十郎に寄せていたのでした。
夏も盛りのちょうど田の草取りの頃でした。
運悪く昼の雷があり、稲妻が田の面に走ります。雷の大きらいな娘は、用事が終えても、帰る事が出来ません。そのうち近くに雷が落ちました。娘は、喜十郎に、しがみついたまましばしの時を過したのです。
初めて、心秘かに想いを寄せていた男の体臭にふれた娘は、自分自身が、雷に打たれた様になりました。
それからは、喜十郎を、意中の男として見る様になり、いつしか二人は、人目をしのぶ仲となったのです。
しかし、それは封建時代の事で、身分違いなので、許されるものではありません。
ちょうどその頃、娘には、となり村の名主家に、嫁入りの話が持ちあがったのです。
けれど娘には、意中の喜十郎がいるために、その縁談を承知いたしませんでした
そこで、素封家夫婦は、娘を問いつめて、初めて、喜十郎との事がわかったので、怒りのあまり思慮分別をなくした素封家の主人は、主人の娘に懸想した喜十郎を、主家の金を盗んだという冤罪で追放してしまったのです。追放された喜十郎は悲しみの為に重い病気となって遂に不帰の人となってしまいました。娘には、喜十郎は不届きの事があったので故郷へ帰したと嘘を言い、隣村の名主家との縁談を取りまとめたのです。娘は、恋しい喜十郎と生木を裂かれるように、別れて泣く泣く嫁に行きました。
そして嫁となった娘に、そのうち子供が生まれました。生まれた子供は、不具の子で、生まれて七夜も過ぎぬうちに死んでしまいました。
その翌年も翌年も子供が生まれましたが、やはり不具の子で、七夜も過ぎぬうちに、名も無いままに、死んでしまったのです。
不思議に思った素封家夫婦は、村の祈禱師に見てもらいましたら、無実の罪で追放され病死した喜十郎の亡霊が娘恋しさに仇をなしているとの事がわかりました。素封家の主人より相談を受けた肝入の六郎右衛門は、近隣の寺から多勢の坊さんを招き、喜十郎の冥福を祈って供養塔を建ててその供養を盛大に一か月余りに渡って行ないました。喜十郎の霊も安らかに眠り、そのたたりもなくなりました。それ以後の娘には、立派な男の子や、女の子が相ついで生まれ、それぞれみんな元気にすくすくと育ちました。
そして、その娘もなが生きしたそうです。娘の生家もその名主の家も今でも代々繁栄せて続いているという事です。
それ以後、喜十郎の吉祥命日には、両家の人はもちろん近村近隣の人達が多勢集まって、喜十郎の追善供養を、明治初年まで行なっていたと言われています。
その昔の追善供養には、悲恋ものの芝居などが奉納されたと言われています。
その喜十郎の碑も今は、その土地の人達にも忘れられて、ただ路傍の石となって、苔がはえてしまいました。
愛染橋の池上寄りにある場所を、昔の人達だけが、喜十郎塚と呼んで遠い昔をなつかしんでいます。
通りすがりでは、わからないくらいに雑草に埋もれていて、昔をしのぶには、かなしい石碑であります。
命日がいつか、私は知りませんが、いつもだれかが、野の花を手折ってそなえてあります。
碑の建立場所は、喜十郎が常日頃可愛がっていた愛馬と追放される日に最後の別れをした場所と言い伝えられています。石碑は馬頭観音像であるのもむべなるものかも知れません。