(出典:あうらのかたりべ)に加筆

三島神社と庚申塔

 三島神社や往古三島神社と伊豆神社の合祀社で当地の鎮守として明治五年五月村社に申し立て済み。大正二年三月供進神社に指定される。

 祭神は 事代主命 素盞嗚尊

 境内神社

  琴平神社 祭神は 大物主命

  天神社 祭神は 菅原道真

  宇賀神社 祭神は 倉稲魂命

 三島神社に合祀されている神社は上記の通りで、明治四十一年十月九日に字中内出の無格社 熊野神社と字御獄の無格社八坂神社の二社を合併する。ところが村の中に病気がはやるなど、あまり良いことがなかったので、拝んでもらったところ「神様が元の所から動かないからだ」ということであったため、この両社は二、三年で旧地に復し、今も合祀以前のように各々廓(村組)の人々によって祀られている。

庚申塔

 境内に天保五年(一八三四年四月)池上の夏目六郎右衛門建立の青面金剛三猿の庚申塔があります。庚申という待日は十千十二支の組合せによる六十日に一回めぐってくる中国渡来の道教の三尸説が日本的な民間申信仰の一つであり「話は庚申の晩」のたとえ通り、農事の打合せ、無尽、飯食、寄合い、などの信仰も夜であった。

 しかし庶民の間に根強く生きてきた庚申信仰の功徳を道教の三尸説によれば、人間の腹中には三尸という虫が棲み、常に生命を害そうとしている。ところが人間は知らぬ間にも罪を犯している場合は多く、これが六十日たつと相当の罪となる。三尸虫は庚申の晩は、本人の寝しずまった頃を見計い、そっと天へ上り天帝にその罪を告げるものとされています。人間誰しも若死は嫌います。そこで、こお三尸虫を天へ上らせない方法として前述の寄合などで寝ずに夜明しをしたという。そして六十日ごとに過去を振り返り自己を反省したと言われています。また、庚申の晩のsexは禁忌とされています。男達は酒宴などで夜を明かし、女達は寺や仏閣に参籠し仏の庇護を受けたと言われています。道祖神(道陸神)や塞神とも主意がすこし違うようです。

 尚、三島神社の御本体に大きな蛙が祀られていますが、それがおそらく利根水系の神社である水の守護神なのかも知れません。

下川上の獅子舞

 この獅子舞は以前は仏に関係したもので、そのあかしには、珠数があり、附属品には卍や王の文字が見られます。獅子舞は厄神祭と夏祭りに奉納されます。厄神祭は苗代上り年番総代によって運営されます。神官御抜の後、御幣や木刀使い、それに大きな珠数を子供達が持って一行と共に廻ります。珠数の数は昔時は百八ツの珠数で頭を撫でてもらうとカクランの予防になると言われています。この事は夏に向っての先人の知恵かもしれません。最近では頭を撫でると頭が良くなると言われます。現代的な考えかも知れません。獅子は三頭で(雄獅子、雌獅子、法眼)それにメンカに笛吹きがいます。戸別を廻って諸厄を追放します。村境には神札を笹竹に結いよその地区に向けて立てます。そして後を見ずに帰ります。夏祭りは氏神様に奉納されます。道化あるいは道中ともいわれます。道中がかりに始まります。道化は生産や子孫繁栄を現わす、メンカを着けた一団が一行の先頭になって神苑に踊りながら入って来ます。道化は普通夕刻行われていました。獅子舞の踊は一般に、綱がかり、笹がかり、門がかり、橋がかり、笛がかり、笹がかり、女獅子かくし、鐘巻きなど沢山ありますが、今はその幾つかを残してすたれてしまいました。鐘巻きは娘道成寺を模したもので祭りの最後に奉納されます。その他に「ほめことば」や「きりうた」があります。その一節を、「あの山うさぎ、この山うさぎなに見てはねる 十五夜お月様 見てはねる」時代ばなれした優雅な踊や唄も、後継者難でその行事も時代と共に消えて行く運命にあるのは悲しい事です。やはり郷土芸能としてでも地区民の深い理解と支援によってでもなんとか保存して置きたいと思うのは私ひとりだけではないと思います。その責にある人は心を新たにして考えなければ、あと幾年かで獅子舞も下川上の土地からなくなってしまうことと思います。厄神祭は「ささら」といわれ、毎年5月3日に三島神社の役員と小学生で氏子の家を一軒一軒 家を廻ります。ささらとは、. 簓(ささら)。竹や細い木などを束ねて作製された楽器の事をさしますが、獅子舞自体を「ささら」と呼ぶ 地域に限って、獅子舞にささらが伴わない例が多いようです、