浄泉寺縁起

 そもそも当寺は往昔何れの御宇、何人の開山という事不明なれど、おそらくは鎌倉時代と思われます。山号は慈眼山円通院浄泉寺と称し、宗派は臨済宗でありました。宋寺は越前国宅倉谷の慈眼寺と言われています。遠路にて法務に往々不便あれば、代勤を永代執らしむ事に定め、その例を中古迄踏襲して参りました。それ故に当寺の山号を慈眼山と附すものなりと伝えられています。開基は関東管領家本無上杉居士と言われ、中興開基は越後の長尾景虎(上杉謙信)なりと伝承されています。永禄二年(一五五九年)上杉謙信は成田長泰の忍城攻略の為にその本陣を上杉家ゆかりの当寺に構えましたが、その折、寺の衰退をいたく歎き再興したものと伝えられています。古文書によれば当寺には保延六年(一一四〇年)建立の惣門が江戸時代末期迄存在していた事実があります。誠に由緒ある寺と思われるものであります。

 中興開基以後の当寺の伽藍その他は次の通りと伝承されています。本堂。開山堂。阿弥陀堂。惣門、廻廊、鐘楼、坊堂、禅堂、脇士天王、の四天門、或いは大きな庫裡など、寺としてすべてを保持していたとあるが、再度の火災のため一時は肥留川名主家の味噌倉を庫裡としていたともいわれますが、戦後再建されて現在に至るものであります。当時は中興の開基不議院真光謙信大阿閲梨法印(上杉謙信の法号)の位牌と寄せ木作りの謙信公像を内陣の位牌堂に安置し、その報恩に歴代の住職は現在に至るまで朝夕行経をなしています。当時の未寺に行田市下池守竜高寺があります。明応九年(一五〇〇年)紀州熊野権現の垂跡を受けて時の住職(理山幡州和尚)は隣村の洞家竜淵寺三世膵惟通柱儒和尚の道風を慕い、これを迎え現住となし宗派も曹洞宗と改め、山号も慈眼山より神護山と改め現在に至るものであります。

・熊野縁起

熊野権現、寺の東隣にあり、当寺の鎮守、紀州より遷す。

それについては次の様に伝承されている。中興開基惟通柱儒和尚夢物語りの口伝があります。

ある夜、雷電暴風雨俄に起きて雲中に神現れぬ。白衣にして立派なる冠を着け、従者したがえ和尚の前に来り、我は紀州熊野権現なり、和尚の道風を聞いて護法のため特に来たれり。寺境の東に安ずべしと告げ給い白煙となり雲中に消えた。とお事、即ち神の護る寺、即ち神護山と号す次第でもあります。

当時の浄泉寺の面影を今も昔も残すものとして慶長九年(一六〇四年)徳川家康公より永代寺領二十石の御朱印状(現存するは写しなり)及び葵の紋章入りの御朱印箱(現存)。

 明和元年(一七六一年)忍城主九代阿部飛騨守正允公の当時住職宛の書状、宝永十九年(一七七二年)鋳造の梵鐘(戦時中供出)寛政十年(一七九八年)寮衆俳回免牘の古文書さらに家康公御条目(慶長十八年達)当時十九世徳裕高潤和尚筆になる忍城主十二代阿部藩播磨守正由公寺御入来記。

 その他正保年間(一六四六年)建立の禅定門供養の一石五輪塔や、天明七年十八世光国円昶和尚時代隣村和田地区の名主竹内保清建立の暈酒山門入許の碑及び当地区では珍しい一石六地蔵や二十二夜講の石仏や、二十五世鶴翁嶺道和尚の明治十八年より同三十二年までの十五年間開塾した寺子屋教育の筆子達の建立した報徳碑(鈴木嶺道の碑)並びに愚然和尚の筆による檀家安泰の為の火伏せの竜の軸や、さらに当地にゆかりのある正法眼蔵の大家岸沢惟庵師の遺墨等々枚挙に限りなく後日に譲ると致しますが、若松若太夫の墓や、各種の石仏等は当時の歴史を知るために寺苑の青石塔婆その他と共に貴重なるものであります。

・本尊阿弥陀如来縁起

 天保三年上州邑楽郡五箇村の田島氏より、弥陀の尊像を奉納す。そもそもこの尊像は東部の某候に勤仕の頃、主君の持仏なりしを賜わり、帰村してその家の持仏とせいしが、その家代々故障ありて次第に衰え、是非なくその村の堂舎へ納むるが、しかるに又某氏族へありし事ども物語れば、南西なれば隣村下川上浄泉寺しかるべしと。中江袋の某氏に語りければ皆一同諾しける。ここに於て即ち当寺へ迎え本尊の前に安置し奉りけるに、日々感応あり、霊験あらたかにして近里遠境歩みを運び群をなす。誠に念仏往生摂取不捨の瑞祥なり。

 益々日にして増して貴賤、集をして門前市をなす。依ってこの前縁を説き、功徳を称して将来不朽に伝えて山門の記となさんものなり。以上(忍名所図会)より抜すい。

 かかる故に当時の墓碑には禅定尼禅定門と仏門に入りし檀徒のものが多々あるのはむべなるべしと思われるものがあります。

 以上の如く当浄泉寺由来記は二十七世天秀海嶺梅和尚より昭和三十九年発行の新編熊谷風土記稿(発行所熊谷市郷土文化会)に浄泉寺の紹介が一頁も掲載されなかったのを非常に残念に思い、不肖私に浄泉寺が世に出るための努力をする様にと御教示されたのを期に、私は出来る限り当寺の関係する事実を集約致し、生前の嶺海和尚の許しを得て一文をまとめてみましたのを現住清寿和尚のお力添えを頂きまして、星宮公民館俳句講座集品集に発表したものを若干推敲して再び発表する次第であります。さらに浄泉寺歴代住職の墓地に埋葬されている尼寺弥勒院(新義真言宗上之一乗院門徒延命山慈尊寺)との関係及び寺宝とされていた上杉謙信公(忍城主下賜か?)降魔の槍や茶釜などが戦後庫裡改築の時に紛失してしまった事は誠に残念であると思います。然し、今後共真実を探究して、少しでも正しい寺の歴史を調べてみたいと思います。

・宝物

 火伏の竜

 浄泉寺宝物に大乗愚禅師の揮毫する火伏の竜の掛軸があります。再度の火災の為に寺院を焼失してしまった浄泉寺ために、九十余才の時に書いたものであります。火伏の竜は火災の時にその吐く水が火災をくいとめたという中国の古事によるものです。

 愚禅師は比企郡吉見村丸貫、内野氏の出で、享保十八年(一七三三)生まれで、二十二才で出家、永平寺とならぶ古刹、大乗寺(金沢)の取り締りとなり、月舟宗胡(一六一八―一六九六)の百回忌、曹洞開祖の道元禅師の五百五十回遠忌の大法要の導師となったが、その後、隠居となり、寛政十二年(一八〇〇)頃郷里の熊谷久下の東竹院に帰られ、原島の福王寺に隠居し、妻沼の瑞林寺にて文政十二年三月一日、九十七才で入寂す。

 

浄泉寺由来記 (あうらのかたりべ:鈴木 清寿著)

 当時の開山は、保延元年(一一三五)と寺伝に記されている。開基は関東管領上杉本無居士で、往時の宗寺は、越前宅倉谷の臨済宗慈眼寺ともいわれている。

天保六年刊行の忍名所図絵によれば、寺の前に星川が流れ、後に山林森々として、山内には、本堂・山門・廻廊・鐘楼・寮舎・坊室・惣門・禅堂・脇士天王の四天文あり、保延六年(一一四〇)建立の山門ありと記載されている。徳川家康公より、慶長九年(一六〇四)永代寺領二十石の御朱印状を給わり、代々の幕府はこれを継承して幕末にまで及び葵の紋章入り御朱印箱と共に現存する。しかし、天保十年己亥年十一月十六日夜、火災ですべての諸堂焼失する(浄泉寺末寺下池守竜高寺記)。当時の住職(明応九年・一五〇〇年)理山幡洲和尚は、紀州熊野権現の垂跡を受け、隣村の洞家竜渕寺三世惟通桂儒和尚の道風を慕い、迎えて開祖とした。宗派も曹洞宗とし、山号も慈眼山より神護山に改め、竜渕寺末寺となり現在に至る。

 当時の中興の開基は、天文二十二年(一五五三)越後の上杉謙信が、忍城攻略の時に上杉家ゆかりの当時に陣を構えた折に、余りの寺の衰退をひどく歎き再興をしたものと伝えられている。当時の内陣位牌堂には、謙信公の木像と共に、(不議院真光謙信大阿闍梨法印)の位牌が安置されており、歴代の住職により守護されている。

 因に山門の石柱の竜渕寺末寺神護山浄泉寺の筆跡は、岸沢惟安老師に依るもので、老師は曹洞宗の宝といわれ、「正法眼蔵」の研究を深め、その道の第一人者である。

当時の宝物として、昔を残すものに、前述の御朱印状、

寛延時代(一七五〇年頃)忍城主九代阿部飛騨守正允公の当時住職宛の書状・寛政十年(一七九八)寮衆俳回免牘の古文書、慶長十八年家康公御条目宋門檀那請台之定(切支丹に関するもの)当時十九世徳裕高潤和尚筆になる忍城主十二代(寛政八年・一七九六年)阿部播磨守正由浄泉寺御入来記・天保年間(一六四六)建立の禅定門供養一石五輪塔・天明七年十八世光国円昶和尚時代の隣村和田邨の名主竹内保清建立の葷酒酒山門入許の碑、二十五世鶴翁嶺道和尚報徳碑、若松芳太夫碑等数多くの碑が存在している。愚禅和尚九十七歳の書(火伏の竜)の扁額などもある。

浄泉寺歴代住職は左記の通りである。

一世惟通桂儒和尚、二世足室儒驎和尚、三世元明伝和尚、四世伝宝受的和尚、五世鶴巣義雲和尚、六世昌岩理門和尚、七世大蟲怒察和尚、八世雪岩剣嶺和尚、

九世陀山香補和尚、十世万年隆松和尚、十一世老山不翁和尚、十二世大隆智海和尚、十三世春岩万栄和尚、十四世木舟冷円和尚、十五世不白玉峯和尚、

十六世楚峯物山和尚、十七世升隆俊旭和尚、十八世光国円昶和尚、十九世徳祐高潤和尚、二十世春岳玉温和尚、二十一世豪天瞰英和尚、二十二世万岳春山和尚、

二十三世雪翁春楽和尚、二十四世英嶽春雄和尚、二十五世鶴翁嶺道和尚、二十六世霊党嶺鷲和尚(泰蔵院住職)二十七世天秀嶺梅和尚、二十八世天応清寿和尚、

二十九世照応後一和尚