純水館記念碑 について知っていることをぜひ教えてください
小諸の製糸工場「純水館」100年の経緯を記した記念碑です。18号平林信号の南東側に設置されています。
純水館記
繭からとった糸の美しさ桑らかさは天使の糸に譬えられ、その歴史は古く神話にも語られている。その後、生系は国内各地で生産されるようになリ、幾多技術の改良を経て江戸末期には欧米にも輸出されて、 蚕業立国への道を拓いた。明治維新になると、生糸は輸出の大宗として、より高品質の糸が求められ、器械製絲の範が示されると各地に製糸場が起こった。当時の小諸は北国街道の信州入リロとして商業が大いに栄え、人の和が育まれ、真摯の気性に富む土地抦であった。
明治の富国策の中で、この地でも器械による系挽きを始めた先人がいたカが、大きな経済変動にもまれ志半ばで挫折した。その夢を実現したのが小山久左衛門正友である。
正友は小諸に生まれ、若くして京都に学び、産業の振興を通して地域の発展と国力増強に尽くすとを生涯の志とした。明治ニ十ニ年、信越線の開通を機に、湧水清らかな大里諸の地に新式繰糸器による百人繰りの製糸場を設け、純水館と命名した。創業当時は糸価が不安定で経営は困難を極めたが、久左衛門は弟清右衛門・五郎と共に販売組合を組織して経営の安定を図った。その間、パリ・シカゴ等世界各地の万国博覧会へ出品した生糸は品質の良さから数多くの受賞に輝き、「純水館規格」として内外の定評を得るに至った。久左衛門は生産の拠点を海外にも広げる一方、県内では同業組合のリーダーとして活躍し、また多くの女子従業員の技術の向上を図ると共に地域人としての教養と徳性の涵養にも努めた。
大正七年、久左衛門が歿して弟清右衛門が後を継いだが急逝し、久左衛門の長子邦太郎が館長に就任した。邦太郎は第一次大戦後の不況と関東大震災に遭遇したが、適切に対処してこの難局を乗り越えた。即ち同十二年、純水館関係者四製糸工場と佐久蚕種株式会社を統合して株式会社純水館を設立し同時に屋代信精製糸場と信用販売組合純水館を買収して経営を安定させた。昭和二年には釜数千九百余、女子従 業員数二千余を数え、その事業規模は最盛期を迎えた。同三年、邦太郎は地域と業界に推されて国会議員となり、以後国政の側からも地方民生と蚕業の振興に努力した。
昭和四年、ニューヨーク株式市場急落に端を発した世界恐慌は、わが国にも波及し、加えて金解禁 政策により製糸業は大きな打撃を受け、純水館も倒産の危機に立たされ、その事業は長い忍従の時期 に入った。生糸の輸出は低調を続け、さらに対米関係の悪化やナイロンの登場により激減し、大東亜 戦争中は短繊維の生産を細々と続けるのみであった。
戦後は情勢が一転した。 生糸は食糧輸入を賄う外貨獲得の為の輸出必需品として大きな役割を果たすと共に日本経済復興の一翼を担った。二十二年、小山八郎が社長に就任し、自動繰糸機を導入して 近代化し生産規模を拡大した。 二十四年には、純水館へ貞明皇太后の行啓を仰ぎ、全従業員へ激励を 賜る光栄に浴した。
日本経済が高度成長期に移ると共に産業構造が変化し、日本の産業の中で大きな位置を占めていた 製糸業は脇役となり、それと共に信濃高原を彩った桑園は姿を消し蚕業は昔物語となった。純水館も 時代の推移に対応して、プラスチック工業等の新分野への開拓と多角経営を目ざして試行を始めたが その途中の三十九年、八郎が歿した。加えて、同年の繊維大不況の直撃を受けて生産打切りの止むなきに至り、ここに純水館の事業は創業の役割を果たし了えた。なお事業の継続を望む有志により純水 館企業組合として業務は行われたが、 これもまた同五十七年に生産を止め、純水館は名実共に一切の 幕を下ろした。
ここに純水館百年の歴史を顧み、純水館と歩みを共にした多くの従業員始め役職員や株主諸氏の奮闘の面影を偲び、その徳を顕彰し、その霊の安らかなることを念じて、現存の関係者が相諮り、この 跡地の一隅に記念碑を建立するものである。
平成十年春建立
ミッチーのほぼ日記[15/09/19]純水館の碑
(2020/12/12 土屋記事作成)