閻魔さまと善名称院 について知っていることをぜひ教えてください

善名称院(真田庵)は地元の方からは「地蔵様」と親しまれていたとお聞きしました。

また、閻魔さまが張り紙などで名前がでてきます。

 

語り部の方では、高野山を須弥山と見立て、高野山への登り口(高野七口)と須弥山を囲む七金山に見立てているのではないか、とのお話がありました。

非常に興味をそそられるところであり、さらにお話を伺うと、真田庵を地蔵菩薩がおられる佉羅陀山(からだせん・きゃらだせん)に見立てているのではないかとのこと。

 

ではなぜ閻魔様が?というと、閻魔庁には光明王院と善名称院(!!)とがあり、光明王院におられるときは閻魔王として、善名称院にあるときは地蔵菩薩として救済されるとか…

 

それで閻魔様と地蔵様がお寺の中にあるのですね…と個人的には納得。

色々な解釈、見方ができるものだと感心しました。

仏教の世界観で善名称院は閻魔庁のなかにあり2つの院の善名称院(地蔵菩薩が住まう)と光明王院(閻魔大王が住まう)という生前の罪で地獄へ送る事を審査する院がある。閻魔庁は加羅陀山地下3500Kmにある 蔵はサンスクリット語ではクシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [Kiti garbha])と言う。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、日本語では意訳して「地蔵」としている。ちなみに仏教伝来経由地韓国では地獄を地奥と発音する。

真田庵は真田庵の略縁起によれば寛保元年8月18日岡氏の三男である大安上人が本堂を建立したとある。はたして本当だろうか?

寛保元年とは江戸時代中期 大坂夏の陣後126年後の西暦1741年。戦乱のことはほとんど忘れられた江戸の太平を満喫している頃。元文6年2月27日(西暦1741年4月12日 讖緯説に基づく辛酉革命に当たるため寛保元年に改元(天皇が譲位しないで年号を変える事)された。

この1741年とは辛酉の年といい、革命が起こる年として知られる。吉宗公はこのことを側近から情報を受け危惧し徳川家が何度も苦しめられた真田昌幸が眠る九度山の地にその怨霊封じのための寺院を建設することを決断したに違いない。江戸時代において寺院の建設は江戸の寺社奉行の許可なくしてできない案件であり、将軍直々の指示により建設費用、建設コンセプトを怨霊鎮魂に定め施工したと思われる。もちろんそれは徳川家に害をもたらせないよう昌幸の怨霊封じである。管理する本尊は地蔵菩薩とし地獄の閻魔大王の変身仏であり昌幸の生前の罪(徳川家への重なる反逆)を悔い改めるよう指導する菩薩に管理させたのではないか。当時の真田庵の通称は九度山町史466頁によればなんと戒円房とある。あな恐ろし。