陸奥宗光 について知っていることをぜひ教えてください
江戸時代後期1853年10歳から1858年15歳まで少年時代の多感な時に高野山寺領九度山傍の入郷(徳川領)で過ごし、後に明治政府の伊藤博文の下で外務大臣となり日清、日露戦争に大きく係わりをもったこの人がこの町に居たことは知らなかった。彼の少年期の苦難の日々がその後の帝国主義国家日本の将来を決めていく。臥薪嘗胆という言葉が彼には相応しい。真田幸村と同じく苦難の日々を乗り越えて天下の徳川に対峙し日の本一の兵と称される。そういう空気を育んだこの土地は不思議なところだ。
少年宗光の住んだ入郷は高野山寺領慈尊院村と高野山寺領九度山村(ブラタモリ風に言えば舌状河岸段丘の村)に両地を監視するためクサビのように入りくんだ(だから入郷か)伊都地方全体を統括する紀州徳川藩岡城〈今で言えば和歌山県伊都振興局か)の麓に居所していた。
陸奥宗光が愛読した本に春秋左伝という中国の戦国時代(魏蜀呉などの跋扈する時代)(呉越同舟などという言葉は有名)の本がある。当時の弱肉強食の時代の事が詳しく書かれている春秋を解説した本だ。その本を愛読した人がもう一人いた。陸奥と同じ時代を生きロシアに傾倒したため暗殺された朝鮮王朝のラストエムプレス閔妃(明成皇后)だ。英雄相入れぬか......。当時の外務大臣は陸奥宗光(大磯で療養中のため臨時代理として西園寺をたてていたけれど.......。)だった。