九度山は奈良県だった について知っていることをぜひ教えてください

江戸時代高野山寺領内であった九度山村は廃藩置県により明治維新の時まず明治2年堺県に編入される。大阪府が領地を拡充したい旨の一環だ。しかし山越えの行政ではしっくりいかず翌年明治3年お隣の五條県に編入された。古代から奈良とは交流があり飛鳥が都であったころ都内を意味する畿内が伊都郡内であった。その痕跡が都の文字に残存している。笠田の向こうは四国と同じ南国(南海道)として考えられていた。笠田のカセとはさあ畿内から出て行こうという都の中から出る意味を持つ古代語だ。しかしながら廃藩置県の再編があり五條県は奈良市を県庁とする奈良県に編入されると九度山にとって遠すぎるため以前は敵対関係でもあった紀州藩をルーツに持つ和歌山県に明治4年編入されることとなった。ボーダーとしての伊都郡九度山村はこうして和歌山県となったのである。現在は経済圏としては大阪、天気予報は奈良、行政管轄は和歌山という風ななりわいなのだ。弘法大師のお陰でユネスコU.N.E.S.C.O(United Nations Educational Scientific,and Cultural Organization)〈国際連合世界教育科学文化機関)世界文化遺産高野山の後背地として日本全国はおろか世界中へその情報を発信できる場所だということを知る人は町民でも少ない。