伊都郡九度山村大字入郷字川上

・明治39年度上期に九度山岩盤東側の低地である袋尻土場から、九度山岩盤西側の九度山橋と同じ高さの入郷土場に移転しました。

・袋尻土場は、少なくとも明治19年から使用されてきた土場ですが、官行斫伐によって高野山から大量の木材を伐採するには、手狭で、明治34年開業の高野山口駅に木材を運ぶには折角九度山岩盤を降ろした木材を、また曳き揚げないといけないので、両方の欠点を補える入郷に移転しました。

・施業開始時、日露戦争が起こり予算が大きく削られました。そして、明治37年11月に施業案が編成されてから、明治38年度に施業開始するまでの準備期間が非常に短期間しかありませんでした。林道開削も改修が主でした。以上から推定すると、開業までに予算が潤沢にあり準備も充分できれば、入郷土場で開業したかったが、期中に予算が削減されたので、急遽、既存設備を最大限利用することにしてしのいだのではないか。明治38年度の予算が回復したので、当初の計画に戻ったのではないか。とも考えています。

・高野小林区署は、当初は大字高野山にありました。明治42年4月に、ここ入郷に移転しました。

・入郷土場の正式名は九度山貯木場です。

・明治44年度の大阪大林区署統計書によると、入郷土場と神谷土場は借地でした。

 借地料年額  入郷土場 25.180円/ 神谷土場 30.320円

・入郷土場の面積は確認できるだけですが以下の通りです。

  明治42年度 7,587坪

  明治44年度 7,888坪

・紀伊続風土記 巻之四十四 伊都郡官省符荘入郷村 によりますと以下の通りです。

 村名古は丹生郷と書けりといひ伝ふなるへし。応永二年(1395年)の文書には丹生河村と書す。

引用文献 国有林の展望(大阪営林局編 昭和27年3月発行)