大正14年に南海高野線が高野下駅まで延長されると、高野山への参詣ルートに変化が生まれます。人々は鉄道を使い椎出の地へ訪れ、ここを起点に高野山を目指しました。椎出は宿場町として栄え、多くの宿屋や茶店が立ち並んでいたようです。椎出より長坂集落を越え、高野街道(京大阪道)へと合流します。その途中、昭和天皇がご成婚された記念に建てられた石の道程標が建てられています。

地元の方々は、地域の誇りと愛着を込めて「新高野街道」を「長坂道」と呼んでいます。

ここから約200メートルごとに 高野山の女人堂まで小さな石の道程標が案内してくれます。

この道程標、建てた人の名前などが入っているらしくほとんど名古屋の方のようです。名古屋の方が高野詣でをする風習があることと何か関係があるのでしょうか?

かつて栄えたこの道も、南海高野線が高野山までの距離を延ばすとともに寂れたようですが、今も道の名残はしっかりとありその時代の面影を多く残します。

 

新高野街道(旧道)にある荒廃していた苅萱堂の本堂が最近(2017年1月)の積雪で倒壊しました。

通行される方はご注意してください。

倒壊した本堂と右手後ろは地蔵堂隆盛期の頃の苅萱堂