桃園界隈 について知っていることをぜひ教えてください

桃園小学校

桃園界隈には桃園小学校があったということです。

詳しくは、九小の歴史にあります。

1872年(明治5年) 学制が交付される。その翌1873年1月5日、旧遍照寺を校舎として第4大区4、5、6小区小学校というなの学校が誕生した。

旧遍照寺の場所は、今の高野山真言宗槇尾山遍照寺の隣、現在の水道会館の場所となります。

1874年(明治7年)に、名称が第4大区第5小区桃園小学校と改められた。

現在の地番の表示にも、伊都郡九度山町大字九度山字桃園として使われている。

この地区は九度山の河岸段丘の上部に位置し明治初期に小学校が開設された歴史地区です。当時教員を雇う経済力がある九度山村でこそ出来たイベントであると思います。この地名となっている桃園について私見を述べさせていただきますと、1つには桃はトウと読み遠いの意味で園は縁の意味で遠い縁の方々が住む場所という意味ではないかという考察。つまり信州から流されて来た16真田軍団が住んだ場所ではないか。2つには桃は百々とも読め母のこと当時の文化吸収言語である朝鮮語ではオ〈御) モ(母) ニム〈様)と言いを宮中言葉でお母様(おもうさま)といいつまり母はボとも読めるのでそれは墓の同音意義語ではないかという考察です。当時の九度山村の墓(ボ)がこの高台にあったらしい。その墓をその後江戸後期おやつの館の上に移転したのだが、後地は1601年頃真田軍団16家族の屋敷に提供した。この世から死んだ者たちと査定される者たちの住む場所として。また墓地はその後現在の中学校の上に移転した。以上が桃園の歴史ハンターの考察である。町史にこの地区の所有者の名前が欠落(削除)されているのが決め手だ。