(1)古沢紙【高野紙】

建長5年(1253年)に木版で刷られたものが高野山に現存。当時、高野山内では出版が盛んで、写経・書籍・儀式用などに古沢紙【高野紙】が使われたようです。

古沢紙【高野紙】は、高野山の麓で漉かれ、その産地を総称して「高野十郷」と呼ばれていました。

高野十郷とは・・・笠木、上古沢、中古沢、下古沢、椎出、河根、東郷、西郷、東細川、西細川の十郷

上古沢厳島神社では「紙漉きえびす講」が結成され、高野十郷の各郷から村役人が二人ずつ出て、毎年1月10日と10月10日の二回会合を開き、えびす神を祀って紙漉き繁盛を祈ったり、紙漉きの技を他村の者に伝えないという定めを固く守っていたなどと伝わっています。

ちなみに、毎年10月の体育の日に上古沢厳島神社で執り行われる神事「えびすのお渡り」は、「紙漉きえびす講」の名残とも言われています。

古沢紙【高野紙】は、番傘用として明治時代に最盛期を迎え、下古沢では100軒が紙漉きを行っていました。昭和10年(1935年)には障子紙用の大判も生産されましたが、南海電鉄の開通で出稼ぎが多くなり、昭和15年(1940年)には下古沢53軒・椎出16軒に減少してしまいました。さらに昭和30年代に下古沢で1軒を残すのみとなりました。

紙漉きは、農閑期(寒の入りから八十八夜まで)の副業として地域住民の生活を支えてきたものなので、南海電鉄開通に伴いより収入の高い出稼ぎが可能となったことが原因で衰退してしまったのでしょうね...

(2)高野山への道

九度山町には、高野山へ通じる7路線=高野七口のうち3路線が通っています。
◇高野山町石道:慈尊院⇒矢立⇒大門
◇京大坂道(東高野街道):橋本⇒清水⇒学文路⇒繁野⇒河根⇒作水⇒神谷⇒不動坂⇒女人堂
◇黒河道:橋本⇒清水⇒国城山⇒市平⇒久保⇒黒河⇒高野山

当初、椎出は高野山への通り道ではありませんでした。
時代は下り、慶長年間(1596年~1615年)に入ると、紀の川の水運が盛んになり、舟戸の浜が賑わいをみせます。
この舟戸を起点に、次第に九度山⇒古曽部⇒椎出⇒神谷⇒不動坂⇒女人堂を経由する道が使われるようになってきます。

享保10年(1725年)、東山から梨の木峠を越えて椎出に至る道が開かれます。

明治に入り、雨の森の道が木馬道としてスタート、明治12年(1879年)に営林署が置かれます。
明治20年(1887年)ごろ、椎出には、切り出した材木を一時的に集めておく「土場」があったと伝わっています。
明治25年(1892年)から明治29年(1896年)にかけて、長坂道は木馬道として使われました。
明治30年(1897年)に木材運搬が終わり、雨の森の道は公道となります。

明治33年(1900年)、紀和鉄道(現在のJR西日本和歌山線の一部)が五條まで開通、翌年名倉駅(高野口駅)ができます。これにより高野口駅⇒九度山⇒椎出ルートが本街道となり、椎出地区は高野参詣客の宿場町として栄えます。

明治35年(1902年)、九度山村営の赤瀬橋が架橋、また翌明治36年(1903年)には九度山橋が架橋されます。※ともに有料
明治37年(1904年)、軌道敷設。
明治38年(1905年)、高野国有林の伐採が開始されます。椎出までは木場道、椎出から安田島までは森林鉄道が完成しており、これを利用して木材が運び出されました。

明治42年(1909年)、対岸に軌道が移されます。※入郷の土場まで
大正元年(1912年)、森林鉄道が全線開通します。津軽森林鉄道に次ぐ日本で二番目に大きな森林鉄道でした。紀和鉄道開通後、高野口駅⇒九度山⇒椎出ルートがもっとも便利な高野山へのルートとなりました。

大正4年(1915年)、高野山開創千百年特別法会には大勢の関係客を受け入れるとともに、木場道が生活道に、そして高野参詣道へと変化していきます。

大正14年(1925年)、高野山電気鉄道(現在の南海電気鉄道)が椎出まで開通します。その後、昭和4年(1929年)に極楽橋まで、翌昭和5年(1930年)に高野山まで開通します。※高野山電気鉄道敷設の資材運搬にも森林鉄道が利用されました。

昭和29年(1954年)から昭和35年(1960年)にかけて、6億2千万円の費用をもって、高野山有料道路が開通します。道路の整備がトラック輸送時代をもたらし、昭和34年(1959年)に高野森林鉄道は廃線となってしまいます。軌道敷は昭和37年(1962年)九度山町へ譲与されました。

(3)高野索道

明治45年(1912年)に高野索道株式会社が開業。日本では、足尾銅山に次ぐ二番目の索道でした。
◇延長:椎出~大門間 6,431m
◇ポスト:43基
◇ワイヤー:Φ24mm
◇大門に35馬力のエンジン
◇搬器:100基(1基あたり150kgまで積載可)1日あたり20トンの物資を輸送したそうです。
◇イタリアのセレッテタンファニー社製
◇ドイツ人技師のカタネオが技術指導
◇国内初の複線循環方式のものであり、当時世界的にも優秀な機械だったそうです。
◇大門までの所要時間:80分
◇運んだもの:墓石・山上での生活物資・寺院再建の資材・山上の産物

昭和5年(1930年)の高野山までの電鉄開通後も活用され、5割程度の物資を運んでいました。
昭和9年(1934年)、玉川林道の開通により急速にさびれてしまいます。
昭和15年(1940年)、南海電気鉄道により買収。
昭和28年(1953年)の大水害の時には、唯一の荷揚げ手段となりました。
昭和34年(1959年)、トラック輸送時代の余波を受け、閉鎖となってしまいました。トラック1台で索道1日分の荷揚げができるようになったからです。

(4)街道の変遷

古代から中世は町石道、近世になると東高野街道・長坂道(新高野街道)が栄えます。近世には、町石道は「大師信仰の道」から「五輪塔石(大きいもの)を運ぶ産業の道」へ変わっていきます。

【東高野街道】
橋本から舟で紀の川をわたり清水へ、それから学文路⇒河根⇒神谷を経由して高野山へ至ります。
町石道より約1時間も短縮されるこの道は「京大坂道」とも呼ばれました。道中の河根には、本陣・旅館・茶屋などが建ち並び、近世から明治30年代にかけて紀の川筋でもっとも繁栄した地域であったと言われています。

明治33年(1900年)、紀和鉄道の開通後、東高野街道は徐々に脇道へと追いやられていきます。
明治36年(1903年)、紀の川橋が完成。

大正7年(1918年)の藤島紀行文には・・・
『~往路は紀和鉄道で和歌山から高野口へ、九度山、椎出経由神谷から不動坂を上り、帰路は神谷から河根経由で学文路、清水、橋本から電鉄で大阪へ~』と記されています。

【新高野街道】
車道が椎出まで整備されると、本街道として賑わいます。
長坂道の途中に刈萱堂(高野街道の象徴)が成立します。時期は、定かではありませんが大正7年(1918年)以降と考えられます。
1800年代(江戸後期~明治初期)は梨の木峠越えが栄えましたが、明治21年(1888年)に私設林道が雨の森に整備されると、次第に丹生川沿いが本街道になっていきます。

明治36年(1903年)、大阪内国博覧会が開催され、高野山への参詣客が増加します。1日に数千人の通行があったそうです。
大正2年(1913年)、高野口⇒九度山⇒高野山間の高野街道が県道昇格。
大正11年(1922年)、紀の川に九度山鉄橋が完成。
昭和34年(1959年)、紀の川に新九度山橋が完成。年間数十万人の参詣者あり。

ここで、赤瀬橋の変遷について・・・
すでに江戸時代には存在していたようです。
明治36年(1903年)に流失してしまいますが、翌明治37年(1904年)に架設されます。現在より上流にあり、通行は有料でした。
明治41年(1908年)に現在の場所へ、九度山村営で整備されます。
昭和28年(1953年)、台風による増水で流失。
昭和29年(1954年)、災害復旧工事で新橋が完成。
平成28年(2016年)、二車線歩道付きの新橋が完成。

赤瀬橋の通行人の変遷
大正2年(1913年)ごろの記録:年間約17万6千人
紀の川橋の年間通行人は、約23万9千人。

椎出が歴史上もっとも栄えた時代
明治末期から大正初期:月平均2万人が椎出を通り高野山へ

(5)新高野街道

大正2年(1913年)、高野口駅⇒九度山⇒椎出⇒高野山間が県道に昇格。3里27町の行程です。
大正3年(1914年)、高野山開創千百年記念大法会に向け改修工事が始まります。高野口駅~九度山間を2.5間(4.5m)に、椎出~女人堂間を1.5間(2.7m)に整備。移転軒数は150軒にも及びました。
このあたりから、東高野街道(京大坂道)が脇道となります。

大正4年(1915年)、高野山開創千百年記念大法会が開催。大正2年(1913年)に27万人の通行記録があり、記念大法会の年には約40万人の通行があったと考えられます。
また、同年高野登山鉄道(三日市~橋本間)が開通。この開通により、汐見橋~橋本間45kmが100分で結ばれます。

大正7年(1918年)ごろから、椎出~女人堂間に200m間隔で石の道標が整備されます。

鉄道の延伸とともに椎出地区は繁栄しますが・・・昭和4年(1929年)極楽橋まで、翌昭和5年(1930年)高野山まで鉄道が開通すると次第に衰退していきます。

(6)乗り合いバスの運行

大正8年(1919年)、高野口~椎出間をつなぐ乗り合いバスとして高野登山自動車会社が設立されます。高野口駅には常時200輌、多いときには500輌の人力車があったそうです。

大正14年(1925年)、鉄道が椎出まで開通し大阪より直通になります。これに呼応するように椎出~神谷へ向けて自動車専用道路が整備されはじめました。この時の事業主体は、高野登山自動車会社ではなく、別の高野参詣自動車会社です。椎出から高野山までの自動車専用道路工事は全体を二期に分け、椎出~神谷(6.4km・幅員4.5m)までを第一期工事とし、神谷~高野山までを第二期工事としたようです。第一期工事は大正14年(1925年)初めには開通し、同年2月15日になって高野参詣自動車会社の営業が開始されました。と同時に、高野口~椎出間を運行していた高野登山自動車会社と高野参詣自動車会社が合併し、以後、全線を後者の会社名で運営していくこととなります。
3台の車で1ヶ月あたり3万人を運んだとの記録も残っています。

昭和16年(1941年)まで運行。
昭和18年(1943年)解散。

(7)交通体系の変化

地域の人的、経済的活力を大きく変えることに
電鉄から自動車全盛の時代へと
今後の九度山の向かう先
「 歩く 」価値の高まり
通過地から“歩く”拠点へ!!

(8)発電

発電と通電
明治29年(1896年)紀伊水力紡績株式会社認可
明治40年(1907年)井堰、水路新設許可
明治42年(1909年)和泉水力電気株式会社
明治44年(1911年)発電所落成
九度山は、紀の川筋において和歌山市に次いで電力に恵まれた地域でしたが、昭和28年(1953年)の大水害により流失してしまいます。これで...足かけ42年にわたる“発電”に幕が下ろされます。
現在、レンガ構造の水路跡(トンネル部分あり)と水路橋の橋脚基礎が残っています。