高野紙 について知っていることをぜひ教えてください
高野紙の産地
高野紙は、九度山町と高野町で古くから作られていた和紙で、高野紙十郷と呼ばれる村でしか生産されていなかったようです。
現在の九度山町笠木、上古沢、中古沢、下古沢、椎出、河根、東郷の七村と高野町西郷、西細川、東細川の三村が高野十郷です。
この十郷では各郷から毎年村役人をだし、年2回の会合を開いていたそうで、その会合で決めた「定」を高野十郷の村々に回し、守らせていました。ここでは紙漉きのいろいろな日を決めていたり、製品の品質についてのこともあったようです。この「定」に違反すれば漉き舟を壊してしまうという罰則があったそうです。
また、紙漉きの技術を他村の者に教えないという「定」もあったようで、結婚も十郷の中で行われることが多かったようです。他村の者と結婚する場合、紙漉きの技術を教えないという約束までさせられたとのことで、いかに紙漉きの技術がこの地方において重要なものであったかがうかがえます。
しかしながらどんなに秘匿したところで技術は伝播するもので、奈良県吉野町の国栖(くず)紙は河根村で製法を習って、帰ってこれを伝えたとの伝説を残しているそうです。また、遠く離れた埼玉県比企郡小川町では細川紙が有名ですが、高野山で修業した僧が細川というところで技術を習得し、故郷に伝えたと伝承されています。実際に使う道具、製法がきわめてよく似ているそうです。
なお、細川紙は石州半紙、本美濃紙と併せて、「和紙:日本の手漉和紙技術(てすきわしぎじゅつ)」として、平成26年にユネスコ無形文化遺産へ登録されました。
紙漉き技術の歴史
いつから生産が始まったのかは定かではありませんが、建長三年(1251年)に刷られたものが現存する高野紙で最も古いものとされているそうです。地元では紙漉き技術は「お大師さん」(弘法大師)から伝えられたとの言い伝えがあります。
江戸時代には専売制度により生産販売が管理されていたとされています。生産の最盛期は明治時代で年生産額が180トンを超える時もあったようですが、戦後需要の減少とともに紙漉きを廃業する家が続き、現在では紙漉きを生業として続けている家はありません。
伝統技法として伝え続ける必要がありますが、当時を知る人もどんどん少なくなっています。高野町に紙漉きの技術を残す活動をされている方がおられるようです。また、九度山町には「紙遊苑(しゆうえん)」という体験施設があります。ここでは高野紙を実際に漉いて体験することができます。毎年、九度山小学校の卒業証書は自分たちで漉いた紙を使っています。
世界遺産「和紙」のルーツは高野山にあり…空海が伝えた技法を受け継ぐ女性「復活」を決意(産経ウエスト 2014.12.10)
高野紙の生産工程
高野紙ができるまでは以下の生産工程を経ます。かなりな重労働で毎年十月から翌年五月まで朝4時半から夜十時ごろまで紙漉き仕事をしたと町史には記されています。
楮(こうぞ)の採取
2~3年生の楮の葉の落ちたものから刈り取る。長さ1~1.2mにそろえて日陰に置き、乾燥しすぎないように保管する。
蒸す
使う前に1晩水に浸け柔らかくする。大きな窯に水をいれ、その中に楮をたて、上から楮蒸し桶をかぶせて2~3時間蒸す。
皮むき
ふかし終えた楮は温かいうちに皮をむく。外皮の黒皮と緑色のあま皮を小刀で削り、白皮にする。
煮る
皮むきした白皮を川に運び浸ける。大釜に水と煮熟剤としてソーダ灰(大正時代以前は木灰)を入れて煮沸させる。沸騰したら楮の皮をいれ、全体が煮えたら(1時間程度)止める。煮た楮の皮は灰汁をしぼる。
叩き解す
煮た楮を充分に水切りし、棒で打ち続ける。強く打ってむやみに叩き切るのではなく、繊維の束をほぐすように打つ。
漉く
水を張った漉き舟に叩き解した楮を入れ、トロロアオイの粘液を加えてさらにかき混ぜる。紙簀と桁を使って三回ほどすくい取る。
干す
干し板に刷毛を使わず、紙の縁を指先で擦って押さえる。天日で乾燥させる。