高野索道 について知っていることをぜひ教えてください

椎出から高野山を望む。中央の山が高野山でここまでほぼ直線的に索道が通っていたそうです。

 

 

高野索道は、九度山町椎出と高野山大門を結び、高野山に物資を運んでいたロープウェイで椎出~高野山間の約6kmを結んでおり、明治45年から昭和35年の50年の間、業務が行われていました。

鉄柱43基、搬器100個、山上の大門営業所に35馬力のガソリン発動機を備え、機材はイタリアから、技師にドイツ人を招き、貨物索道としては日本初の複線循環形式だったと記録されています。

1基の積載量は150kg、最も盛んな時には1日20tの物資を輸送し、1時間20分で山頂まで荷物を運べたそうです。そのころとしては世界的にも優秀な施設だったとか。

大正7年に索道切断事故があった時には大阪朝日新聞に建設中の宝物館の資材運搬の影響や高野豆腐の原料である大豆の運搬に影響があるのではないかとの報道があり、高野山への物資運搬を一手に担っていたことがうかがえます。

昭和5年に南海電車が高野山まで通じた後でも物資運搬の5割は索道を利用していたようですが、昭和9年にトラックによる輸送が始まることで索道の利用が急速に少なくなったようです。

しかしながら戦後も索道は使われ続け、昭和28年の水害時には索道以外の輸送機関がすべて利用できなくなる中、高野山へ必需品を運ぶ大役を果たしたそうです。

そんな索道も各地の道路が整備され、トラック輸送が急速に発達したことでとうとう昭和34年に閉鎖され、よく昭和35年には高野山道路の竣成を機に山上への物資運搬は完全に自動車運送に切り替えられ、会社も高野索道株式会社から南海高野運輸株式会社として再出発、その歴史を閉じることとなりました。

今ではその後も残っておらず、跡地は宅地や森林に変わっており、当時最先端の施設があったことは話を聞かないとわかりません。

当時の話を聞くと、よく搬器が落ちる事故があったとのこと。また、比較的搬器が低いところを通っていたため、搬器に乗り込んで高野山まで行った、という強者もいたとのことです。今では考えられませんが索道の下を道が走っており、搬器の通るタイミングで道を渡ったりとか…おおらかな時代だったのでしょう。


九度山町史編纂だより 平成16年 10月号 「高野索道廃止して45年」に 高野索道の記事があります。