九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

 

以下、平成8年4月号の記事です。

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司馬遼太郎の名作「竜馬がゆく」のなかで、神戸海軍操練所時代の竜馬がもっとも信頼した部下として、陸奥陽之助と云う青年が登場しますが、この青年こそ後に名外務大臣と謳われた陸奥宗光です。

彼が九歳から十五歳まで義兄宗興や母と一緒に入郷村で暮していたことは、町史に「陸奥屋敷」と云う題で紹介されています。

宗光は一生の間にいろいろ名前を替えますが、少年時代は伊達小二郎と名乗っていました。

最近岡勝重氏宅から、小二郎時代の手紙と、兄宗興の手紙など伊達家に関する古文書がたくさん発見されました。

伊達一家は、文久二年八月に脱藩して江戸幕府へ紀州藩の政治改革を直訴する事件を起しますが、手紙のなかには脱藩直前のものもあり、宗光の手紙もそのなかの一通です。また宗興の脱藩を密かに援助した人々のいたことも判りました。

日本の政治が内憂外患に搖れた幕末、九度山町の心ある知識人たちが、日本の将来に危機感を持って、政治改革に仂いていたことを知る貴重な史料です。

手紙を紹介する前に予備知識として、伊達一家が入郷村に住み脱藩するまでの経過を簡単に説明します。

宗光は紀州藩士で寺社奉行であった伊達藤二郎の第六子として誕生しますが、姉五百子が宗興と結婚して家を継ぎます。それで宗光はのちに陸奥姓を名乗りました。

彼が9歳(嘉永5年)の時、父藤二郎は藩の政争によって田辺安藤家へお預、続いて兄宗興も闕所・城下十里外追放となり、宗光も母や兄と共に追放されました。伊達家の記録に「嘉永六年正月十三日の夜、役人に護送され、伊都郡名古曽村十里塚で追放され、その夜は近くの旅宿で一泊す」と書かれています。

一家は小原田村、恋野村を転々としますが、入郷村庄屋玉置左五兵衛方の一軒を借りやっと落着くことができました。宗光はこの頃のことを「母に随ふて四方に流離す」と自伝に書いています。

生活は宗興が近所の子弟に読み書きを教えて暮していましたが、苦しかったようです。

この頃五条から商売に来ていた本屋の仲次郎という人が、宗光に五条で勉強することを勧めたので、暫くの間五条で勉強していました。

安政5年15歳になった彼は、志をたてて単身江戸へ出ます。

宗興や母政子は入郷で暮らしていましたが、文久元年六月父や兄は御赦を受て藩へ復帰します。父は和歌山へ帰りましたが、宗興はまだ入郷にいました。

ところが、文久2年8月一家は突然脱藩して京都から江戸へ潜入し、幕府へ直訴運動を始めます。直訴は翌文久3年2月に成功し、幕府から藩へ政治を改革せよとのお達しが出て、一家は再び藩へ復帰します。

宗光18歳から20歳のことです。彼はこの運動の時坂本竜馬・板垣退助・木戸孝充などと知り合い、以後竜馬と行動を共にすることになります。

宗光の手紙は漢文調の侯文ですが、大意は次のとおりです。

 

「端暦の御吉慶万里同風万賀申しおさめ侯、貴家の皆様方にはお変りなく新年をお迎えなされたこととお慶び申し上げ、新年の御挨拶と致します恐惶謹言

正月三日 中村小二郎

岡熊太郎様

二伸 現在私は聖堂へ入塾勉強致しておりますので御安心下さい。お序の時北厚治様へよろしく御伝え下さい。

三啓 私の手紙を森先生方まで御届け下さるよう御願い致します」

 

発信人の中村小二郎とは、この頃宗光が使っていた名前です。宛名の岡熊太郎とは岡左仲の長男で、のちに県会議員になられた岡規矩之助の幼名です。弟忠治と一緒に宗興や宗光から漢学国学を習ったと、岡家の記録にあります。

聖堂とは幕府の学問所、昌平黌のことです。

北厚治とは、大和御山村の方で岡家の親戚筋にあたり、五条の勤王学者森田節斉の弟子です。森先生とは確ではありませんが、五条代官所主善館の教授森鉄之進かと思われます。

陸奥宗光時代の手紙はたくさんありますが、中村小二郎名のものは珍らしいです。