九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

 

以下、平成8年6月号の記事です。

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皇女和宮様御下向のことや、銅銭回収のことは、いずれも文久元年10月から12月にかけての出来事ですから、手紙の日付は文久2年1月9日と考えられます。

さきの宗光の手紙も、恐らくこれと一緒に送られて来たものでしょう。

宗興のもう一通は、文久元年11月19日付で、11月9日正午頃江戸へ無事に到着し、17日周節を尋ねたが不在との内容です。

宗興の脱藩は伊達家の記録では「文久二年八月日亡失、藩丁へ届捨にて、挙家一結京都に脱走す」となっています。「藩庁へ届捨にて」とは文書で藩へ届出てそのまゝ決裁を受けないでという意味です。

ところが前に紹介した手紙では、文久元年11月9日に無事江戸へ到着しましたとなっていますから、入郷を脱出したのは、少なくとも10月下旬か11月初めという事になり、正式に脱藩する前に密かに江戸へ行って、脱藩の準備を進めていたことが分ります。

歴とした紀州藩士一人が何時の間にか紀州から姿を消して、江戸に出没しているのです。そのためには協力者が必要です。その影の協力者が岡左仲や玉置周節や庄屋左五兵衛でした。


江戸の周節から左仲宛の手紙がありますので紹介します。推定ですが文久元年10月12日付のものです。

 

『寒冷に趣候ところ、いよいよ御多祥御座なされ候よし大幸たてまつり候、

(中略)

この度私どもの親威名古曽村久右衛門がはるばる訪ねまいり、貴君からの御連絡をうけたまわりました。

現在日本の政治状勢は混乱して残念なかぎりです。御聞き致しました伊達君兄弟の政治改革にかける志には感激致しました。私のような不肖者はこの時代に長生きをしても、何も出来ませんから無駄です。したがって伊達君たちの御依頼には、私の命をかけて御協力致します。

詳しい打合せをするため一度帰郷しますから、ぜひ私に協力させて下さい。頓首

十月十二日 玉置周節

岡左仲様

深夜に書きましたので、乱筆乱文ですが、御高覧下さい』

 

宗興から脱藩の意志を密に打明けられた左仲は、宗興が江戸で活動するための拠点とする隠れ家を依頼するため、名古曽村の久右衛門を江戸まで使に出し、その依頼に対する周節の返事です。

周節は「私の命に代えても協力します」という意味のことを述べています。今から考えると大げさなと、思われるでしょうが、江戸時代は軍事政権ですから、藩の法に触れる行為をした者は、本人は勿論協力者家族まで厳しく罰せられ、場合によっては死罪です。

左仲や周節はそのことを承知の上で、宗興の脱出を援け江戸で匿おうとしたのです。

政治体制を改革して、日本を欧米から守ろうとした当時の心ある知識人の熱気が伝わって来る手紙です。

宗興はこの手紙を見るとすぐ、左仲の紹介状を持って江戸に向い、11月9日に到着しています。

このようにして準備の整った伊達一家は、8月に父藤二郎も一緒に脱藩し、本格的に活動を開始して文久3年に念願を果します。再び藩に復帰した宗興は京都詰となって御用を勤めていましたが、長州征伐が始まりますと一転して紀州に呼び戻され、三浦長門守中屋敷の牢に入れられます。

慶応3年大政奉還、王政復古になりますと突如許されて又京都で御用を勤めます。明治元年以後は藩政にたずさわり和歌山県権大参事になります。

宗光のその後は、竜馬と共に長崎亀山社中、土佐海援隊と各地に活躍していましたが、慶応3年11月15日竜馬が暗殺された以後、活動の本拠を京都に置きます。

明治元年正月新政府の外国事務局御用掛となります。彼はその時のことを、「余が生来始めて身を責任ある地に置き国家の公務に与かるの第一初歩なりとす。時に歯(年令)僅かに二十有五にして」と書いています。

入郷以来の苦労がやっとむくわれて余程うれしかったのでしょう。面白いのはその時の辞令で、所属の藩名が「紀州藩」でなく「土州(土佐)陸奥陽之助」になっています。


紹介しました手紙は、発見されたものゝ一部に過ぎませんが手紙を読んで、事件の内容を調べたり、人名や人々のつながりを調べておりますと、汽車も電話も新聞も無かった時代、地縁、血縁あるいは仕事で知りあった人々が、互に手紙で情報を交換し考え、人それぞれに志をもって、入郷村を中心に紀の川筋を往来していた姿が想像されました。