九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

 

以下、平成8年9月号の記事です。

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朝熊山と金剛証寺

天照大神を祭祀する伊勢神宮の内宮から、約5kmの北東に標高553mの朝熊山があります。晴れた日には、伊勢湾の彼方に富士山を遠望することが出来るようです。また朝熊山は、伊勢神宮の丑寅の鬼門に当たる山であるとも言われ、伊勢・志摩両国の分水嶺をなしています。

山の頂きに弘法大師が開基したと伝えられる由緒ある金剛証寺の伽藍があります。伊勢神宮は平野に位置する里宮に対して、金剛証寺は山宮として崇敬され、神宮の鎮守寺奥の院と言われています。「伊勢へ参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と、両方にお参りするのが伊勢参りでした。

この金剛証寺に7、800年もの昔、雨宝陀羅尼経の教えにもとずいて刻まれた木像の「金剛赤精善雨宝童子」略して「雨宝童子立像」が安置しています。最古の雨宝童子像ですので、国の指定文化財となっています。この像を手本として江戸時代に造られたのが、入郷円通寺本堂に安置されている木造雨宝童子立像です。

御丈31cm。

頭の上に五輪塔をのせ、髪を長く垂らし、右手に金剛宝棒、左手に宝珠を持って立ち、唐服に身を包み、豊満な女の童子の姿をしています。この姿は、天照大神が日向国に現れた時の姿で、真言宗の本尊仏である大日如来の化身とされています。伝説として、弘法大師が修行中に「天照大神の姿を感得」し、自ら刻んだ像である。といわれるだけに、神仏習合の天照大神の尊像です。

この雨宝童子こそ伊勢講のご神体なのです。

伊勢講と伊勢参り

伊勢神宮は、皇室の宗庁ですから庶民にとっては雲の上の神宮で、参拝することは許されませんでした。平安時代の末頃、武士階級が台頭し神宮の私有地である荘園が侵されるようになり、神宮の財政も次第に苦しくなって来ました。神職団の一部御師が財政の立て直しに活躍するようになり、全国に信者網を広げていきました。特に500年程の昔の室町時代に、伊勢講が組織されるようになり、雨宝童子が農耕神であるという信仰が一層広まりました。

九度山町内の伊勢講は、いつ頃から組織されたのか正確なことは判りませんが、丹生川区文書によると万治2年(1659)の記録がありますから、江戸時代の初め頃から組織されたのでしょう。

伊勢参りは、慈尊院西島の明治16年(1883)からの記録が残っています。

明治20年の記録を見ると、一人当たり経費負担は4円30銭、男性ばかり十一名参加して12日間の行程です。参拝、見学した場所は

  • 伊勢 ― 内宮・外宮・二見・朝熊山
  • 近江 ― 石山寺・三井寺
  • 京都 ― 愛宕神社

等で、片参りでなく朝熊山に登っています。

伊勢では馬車・近江で船・京都では汽車に乗っています。何といっても12日間の長い旅、女性が参加するようになったのは、紀和鉄道(JR和歌山線)が全線開通した後の明治36年からです。それでも8日の行程でした。

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