九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

 

以下、平成8年10月号の記事です。

 

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今年(平成8年)九度山町では、国の減反政策に基づいて、稲の作付け面積を5.9ヘクタール減らしています。これからの話はその反対の食糧増産物語です。

昭和20年8月15日に太平洋戦争が終わるまで、昭和の20年間は、戦争一色の日々でした。昭和6、7年は満州事変、12年には日中戦争が始まり、16年には太平洋戦争へと続きました。

戦争が長引き、激しくなるにつれて、郷土の若い働き手は次々召集で戦場へ駆り出され、米や麦など食料を作るのは、残ったお年寄りや子どもたちの仕事でした。みんなお国のためにと一生懸命に作りました。しかし、戦争が激しくなるのに比例して食糧不足が深刻になり、ついに昭和16年4月から6大都市(東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸)では「米穀配給通帳制・外食券制」が実施され、米麦などの主食は自由に売買出来なくなりました。

政府は食糧確保にやっきとなり、農村に割り当てて増産を指示しました。


丹生川区有文書に、当時の河根村役場からの通達書がたくさん残されていますので、その中から昭和16年の「麦類増産割当」を紹介します。

「割当表」を見ますと河根村を19の地区(実行組合)に分け、各地区ごとに生産量が割り当てられています。村全体では、小麦98石(15年度実績91石)、裸麦222石(15年度実績166石7斗)で、小麦は約7%、裸麦は約33%の増産計画ですから、働き手のなかった村にとっては大変な負担でした。そこで小学校高学年生や中学生は、勤労奉仕と言って農繁期には農家へ手伝いに行きました。

この食糧難は、戦争が終わって若い人が復員(帰郷)して、少しずつ回復しましたが、都会では23年頃まで続きました。

人間の食糧難と同様に馬の世界でも食糧難でした。「軍馬用干草供出割当表」と言うのがあります。

当時の戦争には自動車の代わりに馬がたくさん使われていました。そこで馬軍の飼料として干草が大量に必要で、これも農村へ割り当てられたのです。

「割当表」によりますと、村の戸数287戸に対して605貫目(約2,270kg)で一戸当たり約2貫目(約7.5kg)強でした。

この時も小学生や中学生は、夏休みを利用して草を刈り干して、新学期に学校で集めて供出しました。

お米が余って減産する現在から見ますと、想像もつかない話ですが、50数年前(平成8年現在)の郷土の歴史です。