九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

 

以下、平成8年11月号の記事です。

 

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九度山町の穀倉地帯安田嶋には、今年も豊かに稲が実り、黄金色の絨毯が敷きつめられました。今では珍しくない秋の風景ですが、安田島がこのような土地になるまでには、昔の人たちの長い苦労の歴史がありました。

このことは、昭和40年発行の町史に「安田嶋の開発と徹水洞」と言う題で紹介されています。

それによると、安田嶋には農業用水がないために、稲作が出来ず百姓の人たちは、なんとか丹生川の水を引いて、稲を作りたいと昔から考えていました。その願いを叶えてくれたのが徹水洞です。

文久2年徹水洞は完成しましたが、間もなく堰が壊れて使えなくなってしまいました。

明治2年喜多山八十郎と言う人が、この徹水洞を再興しようと願い、明治4年工事に取りかかりましたが難工事で資金的に行き詰まりました。八十郎は麻裃を着て坑内に正座し、責任をとって餓死しようと決心しました。

これを知った村人は、八十郎の熱意に動かされて、松山常治・西川伊兵衛・奥田忠兵衛などが中心となって頼母子講を作り、資金を集めて応援しました。やがて明治6年6月工事が完成し安田嶋の開発が大いに進んだと述べています。

この時の頼母子講は「弁天堰拾人組積銀講」と言い、この「金銀請取帳」2冊が、奥田豊治氏の手元に保存されていました。講の最初の会合は、文久4年(元治元年)正月25日で、以後毎年3月に集まり掛銀は1人銀1貫目(1回で合計10貫目)ずつで期間は10年の予定でした。参加者は、木下伊兵衛・粉河屋(奥田)又八・和泉屋(西川)伊兵衛・藤屋(松山)政八・種屋(松山)常次郎・鍋屋(諏訪)文八・名倉屋(保脇)弥七・中団(小佐田団次郎)・粉河屋(奥田)久七・粉河屋聞次の10名です。

講の開始から5年目に、明治維新という大きな社会変動のために、悪性のインフレが起こりました。

たとえば、元治元年最初に会合したときは、大阪の金相場が金1両が銀81匁でしたが、明治3年には200匁にはね上がりました。明治4年に工事を始めた喜多山八十郎が、資金的に行き詰まった原因は、このインフレにあったと想像されます。

しかし、10人は初心を忘れず講を続け、八十郎の工事を援助しましたので、明治6年6月に徹水洞を完成させることが出来ました。講は最後の会合を明治7年3月27日に行っています。「講金銀請取帳」の最後には、工事を監督した成慶院堀如実から奥田久七に宛てた金請取証を貼り付け、銀10貫目を渡したことを書き「右取番成慶院様へ金子あい渡し、目出度万講つかまつり候」と書き残しています。

念願の徹水洞も完成し、工事代金の精算を終えた10人の喜びと感激が、この最後の文書に現れています。福沢諭吉は、有名な「学問のすすめ」(明治4年出版)の中で、これからの日本は、人々が学問をして自立することを説いていますが、徹水洞は九度山のお金と九度山の技術で、九度山のために作った“明治の心”の記念碑とも言うべきものです。