九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

以下、平成8年3月号の記事です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

高野山上を取り囲む八つの峰を、八葉の連華の花になぞらえ、極楽浄土の霊地とし、身分・宗派に関係なく納骨する風潮が生まれました。

永暦元年(1160)鳥羽天皇の皇后、美福門院の遺髪を大塔の東方、高野山陵に埋農納してから一層広まりました。

しかし、都の京都から高野山までの行程、納骨の儀礼等不明でしたが、幸い慈尊院に約300年前からの記録が所蔵されており、その概略を知ることができます。その一例を紹介します。

行程

江戸時代の行程は、京都から紀伊見峠を越え紀の川を渡って、三軒茶屋・慈尊院町石道・大門とのコースで、4日目に高野山へ到着するのが普通でした。

宝暦12年(1762)7月10日(旧暦)桃園天皇が崩御されたにともない、高野山での納骨の世話役で当番寺院である心南院(現普門院)から「10月6日都を出発、8日に勝利寺で1泊、9日に納骨する」との連絡が勝利寺に届きました。

ところで勝利寺は、その創建など詳しいことは不明ですが、本尊の十一面観音は空海42才の厄除のため、自ら彫刻した尊像であると信じられています。昌泰三(900)年最初に臨幸された宇多法皇も、当寺に宿泊しています。

いずれの納骨の時も、東高野街道を通らず、町石道を利用しています。町石道こそ、信仰する人々によって踏み固められた道と考えられたからでしょう。

さて、桃園天皇の遺髪は櫃に納められ六人で警護、御内使(団長)高屋遠江守様は駕篭に乗り、高野山心南院の僧ら四人で先導、総勢上級者十人、下級の者十三人計二十三人の一行で10月6日都を出発しました。

準備

勝利寺の住僧は結縁村(慈尊院)の庄屋に、五日から人足を出し、出迎え・賄い等の準備をするよう依頼しました。

寺の畳表替えから内外の清掃、道路修理、寝具の借用から食料品の購入など。

今回は、人足の振る舞いに酒一斗五升、白米一石(150kg)を費やしています。

出迎え

080310月8日紀の川の渡船場、三軒茶屋、九度山にそれぞれ一名の遠見者(偵察)を置き、一行の動静を寺に報告し、勝利寺の住僧は袈裟をつけ、「あか井戸」(今はない)で出迎え、慈尊院の村役人・人足も割り当てられた任務につきます。

警備は、三~四名が脇差を携行し、遺髪の到着から翌九日の出発まで、粗相のないよう交代で当たります。

到着すると、御内使は仁王門で駕篭から降り住職の先導で、本堂に図のように玉髪を安置します。

このとき、官省符荘政所別当中橋氏が麻布の裃を着用し、各僧と共に定められた席に正座、本尊を開帳、読経と儀礼を進めます。

賄い

夕食は、玄関の破風に菊の紋章を彫ってある庫裡でもてなします。

寺では、御内使の嗜好を予め調べ、旬の山の幸で精進料理を調理します。

更に献立を複雑にしているのは、一行の中の身分の上下により献立の内容、品数、給仕人まで差があることです。

料理方二人、煮立一人の三名は、高野より出向いているようで、給仕二人(内一人袴着用)・台所手伝人は地元の男性が当たります。

9日の朝食がすむと弁当草鞋を人足に持たせ、町石道の神田まで一行を送り届けます。今回は、天皇の遺髪であるため住僧は山頂まで先導します。

勘録(勘定)

5日からの準備、9日の神田までの送る間の人足賃諸経費一切を残らず書き上げた勘録帳、賄いをした献立帳の二冊を心南院に提出し、支払いを受けます。

これで、勝利寺住僧の全任務は終了ですが、慈尊院の庄屋の支えがあってこそ、無事はたせることができたのでしょう。