九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。
以下、平成9年2月号の記事です。
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むかし入郷村に田楽座の人々が住んでいました。寛永19年2月4日御所の紫宸殿前広場で田楽を演じました。
また、日光・和歌浦両東照宮、天野丹生津(都)比売神社、春日大社など各地の祭礼に奉仕していたので、紀州藩から保護を受けていました。
天覧田楽
寛永19年(1642)の新春、京都田楽の二得から入郷田楽座へ一通の手紙が届きました。それには、『来る2月4日八ッ時(午後2時)禁裏様(明正天皇)がご覧になられるから、至急準備して上京せよ』と書かれていました。
早速、泉州大津村の田楽人松阿弥・清阿弥と申し合わせ京の二得のもとへ集まり準備をすすめました。
当日は、御所紫宸殿前にある御門に菊の御紋入りの幕を張りめぐらせて、仮の楽屋としました。
やがて定刻になり、天子様以下御門跡五人・御公家様七十人程が見守る中を笛の音と共に進み出て、一番中門口の楽、二番もどき、三番かいこう、四番立合、五番刀玉・高足を演じ五穀成就を祈願し、その後楽屋で休憩して御所を退出しました。
翌5日は、四ッ時(午前10時)宮中から御指樽(儀式用の四角の酒樽)一荷、御紙(奉書紙)一しめ、御白銀十枚を一同の者に給わり上首尾で終わりました。 その日の夕方京都を出発伏見から淀川を夜船で大阪まで下り、堺で紀州の人達と分かれました。
これが泉州大津村の田楽人松阿弥が書き残した記録です。
日光東照宮での田楽
平安時代から盛んであった田楽は、室町時代になり猿楽の能(現在の能)が、足利将軍の保護を受けて発展したため、衰退しましたが、伝統ある芸ですから、江戸時代に入っても全国の有名な寺社で祭礼には欠かせないものでした。
徳川家康を祭った日光東照宮では、50年ごとに御神忌法事が行われますが、これにも入郷田楽が奉仕していました。明和2年(1756)の記録が残っています。
3月19日に京都を出発し23日かけて日光に到着早速御門主様にお目見えして、金十一両一歩を頂き4月15日の祭礼に奉仕しました。20日に日光を出発帰途につき、5月7日京都着翌8日御役所から出演料として金百両を頂きましたがこの時入郷からは清林・宗阿弥の二人が参加しています。
地元での活躍
遠方ばかりではなく地元でも活躍しています。
天野山狩場三郎大明神の21年目ごとに行われる御造営の祭礼にも奉仕しています。紀伊続風土記という本に『田楽法師入郷村より来る。此法師ら他山へ出勤の時は、慈尊院田楽と称す』と書いています。
和歌浦東照宮へは、毎年4月16日・17日の御祭礼に奉仕していますが、この時は泉州大津からも6人が参加します。
4月16日の逮夜には藩主の参詣があり、その前で中門口・刀玉・高足を演じ翌17日には、片男波の御旅所の東照権現・山王・陀羅尼神の神輿の前で献饌に続いて田楽を奉納し、還御の供奉をすることになっていました。それ故藩から年貢を安くする保護を受けていたものと思われます。
このように、古い伝統を持つ田楽が次第に忘れ去られているのは残念なことです。
奈良春日大社では、毎年12月に春日若宮おん祭が行われますが、お渡式の行列には田楽が五番目に大きな幣を持って進みます。勿論これにも入郷田楽が参加していました。
最近は各地で古典芸能の保存運動が盛んになりましたが、いつの日か入郷田楽が復活して、真田祭の呼びものの一つになってほしいものです。