九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

 

以下、平成12年10月号の記事です。

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国土地理院発行の基本地形図から九度山町の佛谷、黒河、平の地名がなくなりました。昭和34年を最後に、これらの土地は無人の地域になってしまったからです。

位置

右手に楊柳の枝を持ち万民の病苦を救う観音様と信仰されている楊柳観音をまつる標高1,008mの「楊柳山」、また高野の氷室(ひむろ)であったといわれている標高988mの「雪池山」の山麓に位置し、楊柳山を水源とする佛谷川沿いに住居が点在していました。黒河で一番低い佛谷は、近くの久保小学校の標高540mとほぼ同じ高さで、この地域に五軒ありました。これより上流にさかのぼること約600m、黒河があります。ここは黒河村の中心であったようで、氏神の「八幡社」・檀那寺の「愛染寺」や「阿弥陀堂」が建っていました。家も多いときは八軒もあったようです。この地区までは自動車で行けます。

奥ノ院まで3kmと、最も奥地の平地域は、7・80年前まで五軒あった家がすべて早く移転したといわれるだけに、道は一人が通れる昔のままの道を杖を頼りに、急坂を登らなければなりません。この地域は江戸時代の初期に開発されたようで、平の地名からそのことを物語っています。平家の落ち武者の伝説は信じることはできないでしょう。

平地域は標高750m、佛谷から平まで約1.5km、標高差が実に200mもあります。このような村は極めて珍しいことです。

大正7年9月発行
(大日本帝国陸地測量部)

 

昭和34年無人となった旧黒河村

江戸時代は北又・柿平・久保・黒河の四ヵ村で「北又郷」を構成し、高野寺領でした。そのため村の年貢は、山内の塔頭の修理に使われていた村々であることから「修理領」とも呼ばれています。

北又荘の村々の規模を天正19年(1591)の検地帳で検討すると上の表のようになります。軒数は十二、三軒で米はわずか八斗三升八合(約140kg)の計算となります。住民六、七十人の主食は米ではなかったのかと疑問です。元和10年(1624)には佛谷に水田四反歩記録されています。佛谷川(黒河川)に沿って石垣を積んだ水田跡が数多く見られます。

平地区は大正7年に黒河村地区は大正11年から無人となり、残ったのは沸谷の三軒と滝ノ又の一軒、ねたの尾の五軒が隣保組を組織し、大戦中黒河を守ってきました。

明治時代になって、政府は強制的に神社を統合しました。大阪に嫁いだ91歳の方は、「私は平地区の出身です。氏神がなくなった大正時代の初め頃、五軒の家が申し合わせたかのように住み慣れた平を後にした。」と話してくれました。