九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

 

以下、平成12年9月号の記事です。

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「左真田幸村公旧蹟 右高野山」と文字を刻んだ石の道しるべ(道標)を見た人もあると思いますが、こんな道標が九度山町内では数多く残されています。特に、人里離れた山中では、今でも昔のままの場所で山を歩く人々に道案内をしてくれます。

町内の古道

九度山町内で古道としてよく知られている道には、慈尊院から高野山への町石道、学文路から繁野・河根峠・河根・神谷から不動坂を登り高野山へ通じる東高野街道(九度山から椎出・長坂を通り神谷で合流する道もある)や橋本から清水・国城山の東を通り、市平・美砂子・久保・黒河・平を登り楊柳山・子継峠を経て千手院谷への黒河街道の三街道があります。

これらはいずれの街道も高野山への登山道で“高野街道七口”の内の三口です。

町石道

この道は一番早く開かれた道で、花こう岩の高卒塔婆(五輪塔)が立てられ、これらほとんどの石は鎌倉時代のもので、国の史跡に指定されています。

卒塔婆は、もちろん信仰上のものですが、一町(約109m)ごとに立ち、町数が刻まれ道標の役目も兼ねています。この他里石も三十六町ごとに立てられ、一里が三十六町であることを表しています。

この道には町石や里石だけでなく、雨引山の手前に「右かうや三リあまの明神 左こさわ一リかうやちか道」と自然石に天野・高野山への道のりを教えてくれる道標もあります。

この町石道には、寛延2年(1749)7月1日に関東巡礼千五、六百人程が通った、という記録(中橋家文書日次記)が残されており、多くの人々が行き交ったことがうかがわれます。また、高野山奥之院の古い石塔もほとんどこの道を運び上げられたものと思われます。

東高野街道(不動坂口)

学文路駅下の宝暦8年(1758)建立「右慈尊院みち是より一里 左ハ高野みち女人堂迄三里」(最近、享保6年の道標が発見され、近くに立てられている)から河根峠に「高野山女人堂迄八十町」「右大阪みち 左まきのおみち」が、また河根に「高野山女人堂迄七十五町」、千石橋北詰に安政四年(一八五七)建立の「高野山女人堂江二里」の道標があります。

これから千石橋を渡り急坂を登り高野山へと進みます。この道は町石道より4~5kmも近い最短コースで、応其上人が橋本に橋を架けて、高野参詣の便をはかってから町石道に代わって栄え、また高野山からの帰り道として利用されました。

また、九度山から椎出・長坂を通り神谷で合流する道は、紀和鉄道(今のJR和歌山線)が全通した明治33年頃から、高野口駅(当初は名倉駅といった)から参詣人に利用され、昭和4年南海鉄道が極楽橋まで開通する約30年間全盛期を迎えていました。そのためか大正13年に立てられた「至高野山女人堂九〇〇〇メートル 二里十町三…至高野口五五二〇メートル 一里十四町三十間」と、メートル法と里町の両方が刻まれた御成婚記念道標をはじめ、高野山と椎出間の距離を示し、200mごとに立てられたと思われる道標が残されています。

黒河街道

この道には、久保小学校の北側に「右かうや 左まにん道」と刻まれた石仏があり、今でも道行く人々の安全と行き先を教えています。ここからは右へ行くと茶堂を通って子継峠、左へ行くと黒河・平を通って子継峠で先の道と合流して高野山へ進みます。黒河と平の間に「右加ふや 左まに…」と記された石仏があります。これは平の上にあったものと思われます。

平からの道は、一部急坂ですが、登り切った所に「右摩尼山 左くろこ道」の道標があります。高野山から黒河への入り口です。今は通る人も少なく背の高い草が生い茂り、この道標がなかったら黒河への道を見つけることはできません。また、子継峠には、「北ハ東郷・橋本 東ヘ上ル楊柳山 南ヘ下ル奥之院・転軸山」の道標があります。

この他多くの道標もありますが、街では道路の拡張や他の事情で移動され、失われたものもあると思います。できれば元の場所に戻したいものです。歩く人々の気持ちをホッとさせ、また元気付けてくれる道しるべを大切にしたいものです。