九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。
以下、平成15年6月号の記事です。
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本校ハ明治九年九月拾弐日ノ創立ニシテ 紀伊国四大区五小区北又・東郷弐ヶ村組合ヲ以テ設置シ 北又村字久保三百六十五番地ノ建物即チ薬師堂ヲ代用シ久保小学校ト称シタリ
久保小学校の沿革史は上の書き出しから始まっています。
ところが、明治18年8月学制の改正により北又簡易小学校と改名され、設置区域のうち東郷が分離されました。これにより東郷は東光院を仮校舎とし、東郷簡易小学校とされました。
一方、北又簡易小学校は明治26年「校舎ヲ字北又 北ノ前ニ新築シテ従来ノ校舎ト両々使用シ 半月交代ヲ以テ教授ヲ為セリ」とあり、北又簡易小学校は久保校舎と北又校舎で授業がなされました。しかし、明治34年8月従来の交代教授は不便として、新たに校舎を建築し、設置の充実を計ろうとしたのですが、校舎の位置について意見がまとまらず、この時より久保尋常小学校(久保・黒河を設置区域)と北又尋常小学校(北又・川口・柿平・市平を設置区域)のそれぞれ独立した学校となりました。
久保小学校として設置された学校が久保尋常小学校と北又尋常小学校。それと東郷尋常小学校の三校が設置されたことになります。
明治40年、義務教育年限が4ヶ年から6ヶ年に延長され、その経費の増大を予期し、また監督官庁の指導により、いったん分離独立した久保尋常小学校と北又尋常小学校が合併し、明治41年5月6日をもって新しい久保尋常小学校が開校することになりました。
その後、明治44年東郷尋常小学校とも合併して、この年の4月18日より、久保尋常小学校として発足することになりました。この時より市平区は、丹生川尋常小学校区に属することになり、校区の一部変更がありました。
このようにして、いっとき分離・独立した学校も明治の終わりには現在の姿になったのです。
なお、児童数の最も多い年は、大正6年の112名が記録されています。
(参考…『久保小学校沿革史』、『創立百周年記念誌』)