トロリーとトロッコ 名前の由来で調べたように、「トロリー」は、正式には明治20年制定の「営業線路従事諸員服務規程・修路掛等ノ職務」に、「ツロリー」が載ります。鉄道保線用語という事は、内務省鉄道局の管轄です。それでは、農商務省山林局管轄の森林鉄道はどうなのでしょうか? 明治32年の特別会計以来、山林局では林道開削という大型土木事業に力を入れます。しかしながら、土木工事の専門家がいなかったことから、設計も、建設もうまくいきませんでした。そこで、明治34年、土木の専門家として、持田軍十郎を雇い入れます。彼は、明治34年東京帝国大学工科大学土木工学科の卒業生です。大日本山林会報第227号明治34年11月号の持田氏の講演記録によりますと、大学入学前に九州で鉄道土木(保線?)関係に従事して居たようです。実技と理論の両方会得したうってつけの人物です。明治30年頃と言えば、既に「ツロリー」が規程に盛り込まれています。 入局の翌年には、山林局で最初の土木規程となる「林道工及河川工取扱ニ関スル手続」(明治35年12月23日発出)を制定します。ここで、初めて林道の区分に「軌道」が定められます。そして、この規程を元にして、山林局最初の「軌道」が開削されます。それが、高野山森林鉄道です。日露戦争による緊縮財政にもかかわらず、開削が断行されます。すごい力の入れようです。 明治39年12月29日 農商務省訓令第41号 「国有林事業予定案規程」(山林公報 明治40年第2号より要約)に続いて、明治42年3月18日 林発第74号山林局長ヨリ各大林区署長ヘ通牒「国有林事業予定案規程中造林第2部事業取扱手続ノ件」(山林公報 明治42年第9号より要約)が定められ、遂に「鉄道」が規程されます。 第14条 林道事業ハ左記各号ノ標準ニ依リ設計スヘシ 1 林道幅員 鉄道 第1制限 9尺/第2制限 12尺 ...
森林鉄道とトロリー
山本左(佐)一郎氏は、高野小林区署の2代目署長として明治23年に赴任されました。当時の山上は女人禁制が解かれてはいましたが、暮らす人はまだまだ少ない時でしたが、夫人と共に任官され、山上初の子供を授かった方です。 高野山国有林の施業開始と同時期である、明治38~39年にかけて7代目署長として再赴任され、事務所に寝泊まりしながら奮闘されたそうです。 今回の、この「高野山森林鉄道開発史」をまとめることが出来たのは、この方が明治39年に書かれた報告を見たことが大きなきっかけでした。 現公益社団法人大日本山林会が明治15年に設立されます。そして当初より月刊会誌「大日本山林会報告」(現在は改題されて「山林」)が発行されます。そして、数年前にインターネットで公開されます。(直近36ヶ月分は目次のみ)こんなに素晴らしいライブラリーは私は初めて見ます。約130年分、関東大震災や東京空襲をくぐり抜け、約1600号ほぼ全号が揃っています。その中で山本左一郎氏が、明治37年の施業準備段階から明治38年の施業開始直後までの様子をまとめられた第286号「高野の美林」報告がありました。これが無ければ、高野山森林鉄道がどのように夜明けを迎えたのか判りませんでした。大日本山林会様本当にありがとうございます。
山本左一郎氏
概要 戦後トラックの発達が急速に進み、全国の森林鉄道がトラック輸送に転換されていきます。ですが、高野山では、戦時中から軌道からの決別が進んでいました。トラック輸送発達が原因ではなく、戦争中のガソリン不足と鉄不足が原因です。木材確保のために乱伐され、路線も乱開削されました。そして、刈り尽くすと軌道の短縮や牛馬道への転換が行われます。「第7次説明書」が作成された昭和26年時点で、理由は別にして幹線の軌道が短縮され28kmが23kmになっていましたが、続けて短縮される計画が既にあったことが判ります。同書に林道事業計画が掲載されています。 自動車道 高野幹線 1.600km チリナシ-下古沢 自動車道 幹線延長 4.438km 幹線1.437km/御殿川牛馬道3.001km 高野林道軌道幹線を自動車道へ転換する計画です。軌道を維持するには木材の量が必要です。木材が少ないのに経費をかけて軌道を維持することは出来ません。早々に軌道幹線の御殿川沿いなどが軌道ではなくなり、続いて塵無や神谷まで軌道ではなくなったのです。神谷インクラインはこの流れの中で廃止され、インクライン上とインクライン下を結ぶために自動車道が付けられたのです。 唯一森林鉄道として延伸される予定が2.7kmでした。 軌道二級 高野山3林班線 2.700km 昭和31年「第8次説明書」から引用します。 高野林道森林鉄道 一級 ...
新第七期「終焉」
高野山森林鉄道は、高野山国有林全域に広がっていますので、地域を分けて路線を描いていきます。 注意事項 ・路線のルートが確定しているところと、まだ確定していないところもある為、確定しているところは点線で表示し、確定していないところは、路線名のみ記入したり、「推定」などの文字を入れています。 ・あくまでも個人の調査ですので、間違いもあるかもしれませんが、ご容赦ください。 ・道路として利用され整備されているところもありますが、多くは廃道となったり、そもそも危険な場所に開削されていたり、自然災害等での路盤が失われたりなど、危険な箇所が多数あります。また、危険な動物もいますので、くれぐれも責任ある行動をお願いいたします。 花坂線 花坂線は、幹線の「細川」から分岐します。通例では、幹線から分岐する路線は「支線」と呼ばれますが、当該路線は昭和時代の幹線として扱われているので「花坂線」です。 九度山から南下した幹線は、細川で東に折れて、東廻りで高野山真南の39林班(一の枝川)を目指し、約15年かけて大正時代に到達します。東廻り幹線です。 今度は、細川から分岐して南下し西廻りで40林班の内子谷川を目指します。数年で完成し、花坂線終点から更に作業軌道を延長し、昭和19年に霊宝館の裏手に到達します。 細川から霊宝館裏まで 大門支線 湯川隧道口 路線案内 土場 細川貯木場 通称細川土場 明治45年開設 紀伊細川駅すぐ近くにあり現在は公営住宅 ...
高野山森林鉄道詳細地図 花坂線
高野山森林鉄道開発史では、「牛馬道」「木馬道」「軌道」「森林鉄道」など「道」の用語が多数出てきます。これらの用語は、いったい、いつ、だれが決めたのか考えたことありませんか? まず、これらの「道」を総称する用語として「林道」があります。 ネットで検索してみると、「林道とは、森林の整備・保全を目的として森林内に設けられる道路のことで、一般的には、全幅員3.0メートル以上の自動車道になります。(徳島県庁コールセンターより)」など、判りやすい説明が出てきます。 この「林道」というカテゴリーの中に様々な「道路」が「区分」されています。この「区分」は道路の設計基準や資産価値を定めるために必要です。簡単に言うと、人の歩く歩道と、車の走る車道では、道幅など必要な道路構造が異なる為、「林道」を目的に合わせて「区分」したのです。今では林道=山の中を自動車で走る道のイメージだと思いますが、事の初めは、まだ自動車の無い明治時代から始まります。 明治10年代までは、木曽式運材法が主流で、わざわざ搬出用道路を開削するということを考えていませんでした。唯一「木馬道」くらいでしょうか。明治20年代になり官行斫伐が進められ、搬出用道路(当時は牛馬道や歩道)が造林費という科目の中で細々と開削され始めました。高野山では「木馬道」が発達します。そして、いよいよ明治32年に国有林野法及び森林資金特別会計法が成立し、国有林特別経営事業が開始され、大規模な林道事業が計画されます。そして、「林道」を規程する法律が出来上がります。 「軌道」の初出で、現代の「林道規程」のご先祖様と言われている法令です。 明治35年12月 林発1843号 林道工河川工取扱ニ関スル手続 (林道事業のあゆみ より要約) 第12条 林道築造ハ左記各項ノ標準ニ拠ルヘシ 第一 林道ノ種類ハ左ノ5種トス (1)軌道(2)車道(3)牛馬道(4)歩道(5)木馬道 第二 幅員ハ車道9尺、牛馬道6尺、歩道及木馬道4尺トス但シ木馬道ニテ牛ヲ使役スルトキハ6尺トス ...
林道区分「軌道」と「鉄道」
わが高野山森林鉄道は、明治38年度に軌条を購入し同年敷設し6月には開業しています。いわゆる、軌道に分類されるもので、敷設当初は、トロッコを手乗り下げ(人が乗って下って行く)を行っていました。内燃機関車が導入されるのは、昭和3年です。 農商務省山林局管轄(国有林)では、日本初と言われています。それでは、他の2番目3番目はどうだったのでしょうか。きっちり確認しないと眠れません。 農商務省山林局管轄(国有林)で、日本で2番目と言われてるのは、明治39年開設の青森大林区署小泊小林区署管内 板割沢軌道 3番目は、これも明治39年の熊本大林区署人吉小林区署の白浜軌道と言われているようです。 大日本山林会報第283号 明治39年6月発行にある記事を見つけました。 明治39年に開設された、瀧内村大字沖舘にある青森製材所に鉄軌条で構内及び鉄道連絡用に小軌道が走っていたようです。 青森大林区署第一回統計書(明治41年度)「土木・林道」には 軌道路線が10路線挙げられており、設計3・新設4・修繕3(小泊1・大鰐2)となっています。 高野山程突っ込んで調べてはいませんが、概ね正解の様です。 ということで、早々に高野山が1番決定!ではありますが、明治39年以降、雨後のタケノコのようにどんどん軌道が建設されていきます。 因みに森林鉄道では、青森大林区署にて青森軽便鉄道が、明治39年に調査が開始されるところです。
国有林で最初の森林軌道(鉄軌条)
概要 第4と5次が無いので、戦中の様子が判りませんが、戦時の緊急事態ということで、かなり乱伐されてしまったようです。その結果が第6・7次となります。第3次修正には無かった軌道路線が増えていることと、軌道が「車道」「牛馬道」「木馬道」に転換されている路線が多数あります。理由は以下の通りではないかと推定しいています。伐採地域を広げるために路線をどんどん増やしたことと、戦中に燃料削減の為に、内燃機関車運材を人畜力運材に変更したからではないか。そして、これが図らずも?将来のトラック輸送への布石となって行きます。 「昭和23年度 第六次編成 高野経営区 経営案説明書」及び「第七次経営案説明書 昭和26年度調査 高野経営区」がありますので、戦中、戦後の高野山の実態を見てみます。当時の高野山全体の情況を把握するために、森林鉄道だけでなく車道・牛馬道・木馬道も含めて掲載します。 まず、第六次の「前案実行経過の批判」に以下の通り戦中の乱伐への反省が述べられています。要約すると。 戦時中の臨時措置など一時的な伐採計画が用いられ、経営計画と実行に甚だしく食い違いが生じました。例えば主伐では、面積で180%、材積で136%超過して伐採されたのはまだしも、伐採の方法が後先考えずすべて伐採したため、今後の更新不良が生じる。また、搬送能力以上に伐採したため、腐朽材を出したところもある。貴重な森林資源を損耗することないよう計画に基づいた適切な実行が必要だ。 誰が実行させたのかは判りませんが、森林管理のプロとしてはよほど悔しかったのではないでしょうか。行間に想いが滲み出ています。 そして、林道の様子をまとめますと 幹線軌道 軌道 九度山-33林班 23.100km 極楽橋線 牛馬道 ...
新第六期B「運用延長最長期」