曹洞宗永平寺の末寺で、香峰山と号し三つ葉葵を寺紋とする。慶長5年清頓和尚により草創開山、小出秀政の建立、徳川3代将軍の家光の時、摂津高槻より岡部宣勝が岸和田城に入った。承応元年(1652年)には生母の位牌「洞仙院殿梅渓宗考大姉」(徳川家康の姪)を栃木の大中寺より転地、その墓碑を建立する。寺名もこの戒名からつけられた。現在の墓は近くの元岸和田藩士岸田歯科医が私費で建てたものである。
洞仙院は、家康の異父弟の松平康元の息女で、岡部長盛に嫁ぎ宜勝を生んだ。
明治15年火災で焼失、再建のために泉佐野市の食野家の平成寺は51代平城天皇と関係があり、瓦に「皇」の字や菊の御紋があったが、残念なことに昭和62年11月26日、本堂から出火全焼し仏像や洞仙院の位牌も焼失した。また、境内には岸和田藩、漢学者相馬九方の墓もある。(