松川浦でとんかつ屋を営むかあさんに話を聞いた。

松川浦は福島県相馬市の太平洋岸。美しい砂州が海を仕切り、浦、潟を作っている場所だった。地元の人はこの浦を沼と呼んでいた。今はこの沼が海と完全に繋がってしまった。

 

一見何事もなかったような新築に見える奇麗な食堂は半分津波に浸かったという。

かあさんは近所の人はみんな流されてしまったと涙を流す。かあさんは、たまたまお客さんが切れなかったので、いつもは昼寝に帰る時間、店にいて裏の高台に逃げることができたという。家は完全に流されていた。

息子と一緒に助かった。避難していても気がもめて、さっさと帰って来て躊躇なくまた借金して冷蔵庫やら何やら全部買いそろえて店を開けたという。「前の借金ものこってんだけどね」と笑う。

避難所にいたときも草むしりから何から一日中なにか仕事を見つけて働いていたという。「いや、疲れて、こたこたになるまで働かないと、眠らないんだよ」という。働きものだ。

 



 

6月25日に再開したお店。息子さんの揚げるとんかつは本当に旨かった。店は昼食どき、工事関係者や地元の人で満員だった。「倅は遠くで修行してきたんだよ。美味しいて言ってくれてありがとね」。仕事を自分で見つけられる人はすばらしい。

 

田んぼを作れないでいる飯館の風景。網を入れると「漁ってないから魚がでかいんだりよな」と苦笑いする漁師と家族。仕事探しても、50過ぎでさ、なかなか雇ってもらえねえんだよね。避難所から仮設にいくか、南相馬に帰るか「どうすっぺかなあ。仕事してえなあ」という避難者。

 

仕事したくても、身体に染み付いた仕事、畑や店や道具を奪われた人、見つからない人々が、諦めないで自分ででも仕事を作り出せるように、福島の友人たちは活動を続ける。人には仕事がないと駄目だという。

 

 

休みを取って僕に福島市内、伊達、相馬の松川浦、飯館、川俣を案内してくれた福島の役所の青年ともこれから長くつきあえそうだ。彼は、最後に福島市内の松川で、住民達が管理する城跡の公園のあじさいを自慢してくれた。住民を自慢するような公務員のいる街はかならず良い未来を持っている。

 

2011.6.30 杉山幹夫