決まりがないからこそ、活動を記録に残すことが大切

『職員支援隊』として福島市会津若松市で避難所運営の支援業務を行ったという県民生活部国際課の中山尚美さんにお話を聞いた。

 

「震災直後、直ぐにでも被災地応援に行きたいという思いはありましたが、被災地側の受け入れの体制が整うまでは絶対に行ってはいけないと考えていました」。被災地支援に入るタイミングは難しい。受け入れ態勢が整っていないのに一方的に行っても逆に迷惑がかかってしまう恐れもある。実際に震災直後は体制が整っていないと支援を断った被災自治体があった。

 

震災直後から暫くは支援物資の提供作業が中心だった。岡山には『AMDA』(The Association of Medical Doctors of Asia)という災害や紛争で被災した地域に、医療・保健衛生分野を中心に世界各地で緊急人道支援活動を展開している特定非営利法人の本部がある。岡山空港内に設置している救援物資支援センターには毛布、寝袋やテントなどの救援物資を保管した備蓄倉庫があり、海外・日本国内で災害が発生した時などはそこから救援物資を空輸して、AMDAが現地で活動する手助けを県がする。AMDAとは普段からそういった連携があったから密接に情報共有ができていた。

 

震災直後、現地に先遣隊を送り、医療活動を始めたAMDAから物資が足りていないという情報も入ってきた。 県庁が窓口となり、県民の善意が集まる。「支援物資はとめどなく届くのですが、整理する手が全く足りないんです。皆が悶々としている時に『需要があるなら支援物資を整理するボランティアを募集したら良い』と仕切ってくれた職員がいたんです。その人は朝から20時までは支援物資収集~配送のための指示や作業、そこから深夜すぎるまで通常業務を処理していました」。ボランティア募集するとすぐに多くの希望者が集まった。支援物資の収集、仕分けと配送作業は急ピッチで進み、多くの支援物資を被災地に送り届けることができた。

 

20日前後になると被災地側の受け入れ態勢が整ってきた。庁内で『職員支援隊』の募集があり、直ぐに手を挙げた。28日から会津若松市の避難所支援活動に向かった。支援活動の場となったのは、県立高校の体育館。既に体育館の中に自治会ができていた。そこに原発から30km圏内の方が二次避難されてくる。

「『情報が全くないのに逃げろと言われたから逃げた』という状況だったようです。避難者名簿を作るために名前や住所を教えてもらうと、名前は言うが公表となると空き巣に入られるのではないかということを心配されていました。自分の安否だけ発信して、知り合いに元気だということだけを伝えられるいい方法を考えてくれと頼まれて困りました」

 

会津の避難所について「自治会が頑張って運営を担っていました。運営は既に上手くいっているのですが、避難所のニーズが市本部に十分に伝えきれていないという時期でした。岡山県の腕章を付けて、直接ニーズを聞くようにしました。『情報がないこと、行政の動きが遅いこと』に対して怒りを覚えるんだという声を耳にしました。でも地元自治体も頑張っているから直接は言えないんです。地元自治体にうまく伝えるので教えてほしいと聞いて廻りました。伝えなければならないことはメモとして残して本部に伝えるように配慮しました」。医療関係者や保健師とはまた違う自治体の職員だから、また、女性だから踏み込んだ話をしてくれたことも多くあったそうだ。話しやすい世代であるということも大きな要素となるという。

 

被災地の外からきているからこそ客観的に考えられる。自分の立場で出来ることを精一杯した。だからこそ「支援活動の内容、その時の状況や課題を記録として残す事の大切さや公務員は頑張っていたんだというアナウンスをきちんとすることが重要ではないでしょうか」という。

 

 

 

岡山県備中県民局では、管内で被災地支援のために活動した「市民ボランティア」、「市町等職員」、「県民局職員」などの活動記録を『東日本大震災支援活動報告書-震災から学んだこと、伝えたいこと-』としてHPで公表している。

 

岡山県備中県民局の活動記録は下記に公開されています。

『東日本大震災支援活動報告書-震災から学んだこと、伝えたいこと-』

 

(取材日:2011年12月27日 ネットアクション事務局 山形信介)