携帯電話網復旧の最前線

 

何度も山に登って電波を飛ばし、道なき道を往復

 

3月11日の14時46分、株式会社NTTドコモ東北支社・サービス運営部長の深瀬和則さんは、仙台市青葉区の東北支社の9階にいた。長い地震だった。電気も消え、窓の外には火花も見えた。震災に対する訓練は何度も重ねており、予備灯がともる中、すぐさま災害対策室を設置した。

ネットワーク監視装置を見るとアラームが次々に赤色に変わっている。電話は輻輳状況が続きつながりづらい状況であつたが、衛星電話は繋がった。テレビでは津波の映像が流れていた。津波マップを取り出し、重要基地局の状況把握を指示した。

 

 

このビルの電源を供給するための燃料が、備蓄分では13時間しかもたないことがわかった。停電していないノードビル(ドコモの電気通信設備)は福島だけだった。深夜、ガソリンスタンドを駆けずり回って、何とか4,000リットルの燃料を確保した。ビル内の空調をとめて燃料の節約を行った。機械室内は温度が上昇し扇風機で熱を飛ばした。翌日には日本海側から徐々に停電が回復したが、太平洋側沿岸部の復旧見込みは分からない。

 

3月12日、ドコモエンジニアリング東北の社員が、最重要局復旧のために現地に出向いた。沿岸部へのアプローチは非常に難しかった。現地の社員は無事だったが、ショップ店員に不明者がでた。

 

このビルの近隣の小学校は避難所に指定されていたが停電で真っ暗なため、ドコモ東北ビルの1階受付フロアを開放した。毛布、水、トイレと、キャリアに関係なく携帯電話の充電コーナーを設けた。避難所としての開放は一週間以上にわたった。

 

現状把握班、復旧班、燃料班に分かれて電源や回線の復旧を進めた。山田社長からは4月末までにエリア全体を復旧するよう指示があった。何度も山に登って見通せる場所を確かめながら電波を飛ばし、瓦礫でいっぱいの場所や道なき道を往復してもらった。

各地から上がってくる情報は断片的だったので、エリア図に落とし、お寺、幼稚園など様々な避難所に避難している人数を把握した。移動基地局車、衛星移動基地局車には限りがあるため、避難している方が多いところから基地局を設置し、少ないところは衛星携帯電話で対応した。

 

通話可能エリアが広がる中、5月の連休後に避難所から自宅に戻る人が増えると「携帯電話がつながりづらい」という声が出たため、移動基地局や可搬型衛星基地局でエリアを取り直した。各地からの援軍も帰り、支社内の業務も徐々に正常化していった。

しかし今でも携帯の基地局に電気が来ておらず、2日に1回発動発電機へ給油しているところがある。損傷局のエリアは復旧したが、水没した97の損壊局のうち未復旧がまだ40局程度ある。津波の後に基地局を立てるのは難しい。行政の計画、たとえば、住宅を高台に移転する・しないも基地局の位置に影響を及ぼす。早く元のエリア、品質に戻したい。福島の原発事故の周辺へは、当初30キロ圏内には深瀬さんも足を運びエリア復旧に取り組んだ。また、原発エリアへは20キロ圏外の基地局から高性能アンテナによりエリアを回復している。

1日も早く3月11日以前の状態に戻すことが使命であると、深瀬さんは今も日々奮闘している。

 

(取材日:2012年1月27日 ネットアクション事務局 上瀬剛)

 

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